第十七話 神饗

17-1 水底の国の姫君

この世自ずから成らず。日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世をにし神々の名残なり……




 神饗祭かむあえまつりの夜の御燈みあかしのはつはつとはぜる音ばかりが、女の黒髪のような冷たい夜気にとよむなかに、乳母めのとはお駕籠かごのうちから姫君をそっとお抱き申し上げた。この大事な日にお風邪でも召されては困るという乳母の計らいで駕籠の中にはふんだんに綿をくるんだ分厚い衣が敷き詰めてあったため、引き戸を開けると、幼い少女の寝息の温もりを含んだむっとするほどの中の熱気が、屈んだ乳母の頬にかかった。揺り起こされた少女は、巣箱のような温かなしとねのうちより霜の月の冷たい掌の上へと突如連れ出されたために、寒そうに身を震わせると乳母の襟元に縋った。それからふとお顔を上げられて、先刻よりちろちろと降りだした小さな雪片を、大きな瞳をみはられてご覧になる。今年の初雪であった。そしてまた、姫君が雪を御覧になるのも、今年といわず、生まれてこのかた初めてのことである。雪はあかりに照らし出される刹那にひらめいて、また綿ぼこりのような薄灰色に沈み込み、暗い土に吸いこまれていく。姫君は寒さも忘れて声を上げられた。


「わあっ!ねぇ、乳母、身て!」

「大きなお声を出してはなりませぬ……!」


 姫君の細くも高いお声が、神饗宮かむあえのみやの周りに煌々と灯されたにわびを震わせるのを恐れて乳母は押し殺した声で制したが、生まれ育った桜陵殿おうりょうでんの一室を今日この日初めて出られた姫君には、もう乳母の声は届いていない。姫君はするりと乳母の腕をすり抜けて、寒さにも構わず勾欄こうらんからぐいと身を乗り出されると、雪片を掌に捕まえるべく小さなお手をかざされた。危うく姫君の転げ落ちかけたのを、乳母が慌てて後ろから抱きしめたが、姫君は不意にかすかな風に煽られたためにお顔にかかった雪の冷たさに夢中でいらっしゃる。


「ねぇ、乳母、つめたい!とってもつめたいの、これ。ねぇ、乳母……!」

「姫様!静かになさいませ……!」


 乳母は、初めて見る雪にすっかり興奮しきっている少女を勾欄より引き離すと、袖のうちで少女を振り向かせて、怖い顔をして言った。


「姫様、そのように騒がれてはなりませんと、散々お聞かせしたのをもうお忘れでございますか?!……今日は姫様が京姫となられるための大事な儀式の日でございますよ。これから姫様は人の奥様、畏れ多くも帝のお妃さまとなられるのですから、そのように子供っぽく騒がれてはなりません。なんという姫君だろうと、帝に笑われてしまいますよ」


 そこまで言い終えてから、乳母はなお言葉を継いで、


「帝は姫様よりも五つも年上でいらっしゃいますし、お若いのに大層落ち着きなさった、立派な方なのですよ。これより先は、帝とともに姫様がこの玉藻の国の父母となり、この国を守られるのです。ですから、いかなる時も奥ゆかしく振る舞って、そのようにみっともなくはしゃいだ声を出されませぬように……」


 言いながら、自身も七つの娘を持つ乳母は、頑是ない子供になにを言い聞かせているのだろうと次第に心もとなくなってきたらしく、説教の声が次第に小さくなっていく。二人を迎えるべく宮の内より庇の下まで出てきた女房たちも笑いを忍んでいる様子であるし、元より、こちらをじっと見返していらっしゃる姫君の、ふしぎそうに瞳をみひらかれているそのお目元や、やんわりと赤く染まっているゆたかな頬、まだ伸びきっていない樺色の髪の、肩の上で切りそろえた毛先がさやさやとゆれている、そのあどけなさ。乳母の同い年の娘の方は、母の贔屓目ひいきめを差し引いても、この階級で生きるためには欠かせない闊達な利発さを示し始めているというのに、世の中というものを見ずにお育ちになったせいなのか、それともやんごとなきお方の生まれながらの常であるのか、なぜかくも頼りなく物のお分かりにならないのだろう……


 それを思うとついあさましくもなってくるけれども、また、一方では、もう早くも乳母のお説教に飽きて、つやつやと笑みをこぼされながら雪を見上げていらっしゃるご様子が、いかにもおかわいらしいので、自然、実母にも劣らぬいとしさも募ってくる。おいたわしや、わが姫君。七年という長い物忌が開けて初めてお部屋を出られたそのめでたき日は、姫君を永久に閉じ込めるための儀式の夜であったのだ。それもまるでお分かりになっていない……乳母は睫毛にしたたろうとする涙の露を、まあ不吉なこと、目ざとい女房たちにでも気づかれたら、とあわてて袖で押しぬぐって、姫君を抱いたまま宮の庇の下へと身を差し入れる。先導の侍女に導かれゆく乳母と姫君の後に、二人を出迎えた女房たちが、ぞろぞろと従った。

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