第五話 井戸底の呪い

5-1 「When is your Birthday?」

「Hello! My name is Tsubasa Aoki! Nice to meet you!」

「Hello! ま……My name is…Mai……」


 舞がしゃべり始めたときから肩を震わせていた翼が思わず吹き出した。


「わ、笑わないでよー!」

「こら、京野!日本語でしゃべるな!」


 英語教師、鳥居先生の一撃がするどく飛ぶ。舞と翼の会話が聞こえた周囲の生徒たちは、自分たちの会話を進めながら、必死で笑いを堪えていた。


「もう……!」


 顔を真っ赤にして起こりながらも、舞は再度翼と向かい合う。翼はまだ笑いながら、両手をあわせて「ごめん」と小声で言った。


「もう……!ま、マイネームイズマイ・キョーノ!ナイストゥミーチュートゥー!」

「えーと、Where are you from?」

「I’m from Tokyo? And you?」

「I’m from Tokyo too. When is your birthday?」

「My birthday is June……えっとー、あっ、……June eleventh……じゃなくて!July eleventh! When is your birthday?」

「My birthday is May seventh!」

「はーい、そこまでー!」


 鳥居先生がぱんぱんと手を打って、英会話の練習に励む生徒たちを静かにさせた。鳥居みちる先生は年頃はおおよそ四十歳ほど。細身で長身の先生で、抜群にスタイルがよいのに加えて、美人である。ただ、本人は懸命に教員らしく振舞おうとしているわりにどことなく抜けたところがあって、生徒からは陰で(あるいは公に)「みちるちゃん」と呼ばれて親しまれていた。


「はーい!じゃあペアを変えて!」


 鳥居先生の指示で、生徒たちが動き出す。舞と翼は手を振って別れた。さて、どうしよう。美佳はさっそく他の友達に捕まっているし、そういえば今日は女子が一人休んでいるんだっけ。ということは、女子同士でペアを組んだとして誰か余るっていう事か……


 何の気なしに傍らを見た舞は、司が移動もせずに自分の席に着いたままであるのを見た。司は、まだ新しいペアも探さずに必死に司に引っ付いてサッカー部への勧誘をしている恭弥に対し、心底嫌だという気持ちを隠そうともせずにいるところだった。あの調子だと、どうせ英会話中も勧誘をしていたのだろう。とうとう鳥居先生がやってきて二人を引きはがし、恭弥を放り投げた。と、友達の誘うのにも気づかずにぼんやりとその光景に見入っていた舞と、鳥居先生の目が合った。


「京野!あんたペアがいないなら、結城とやりなさい!」

「へっ?えぇっ!あっ……!」

「ほら、早く、ここに座って!じゃあ、新しいペアとの会話の練習、スタート!」


 舞は戸惑い、おろおろとしながらも、鳥居先生が指した、司の隣の席を借りてそこに腰を下ろす。司は舞の方に体の向きを変えもせずに、眦まなじりで舞を睨んだ。軽蔑――ほかになんの感情も見当たらない薄紫の瞳。机に右手で頬杖をつき、左腕を背中の方におろして、どことなく気だるげな様子なのに、なぜかその佇まいには気品がある。その顔に笑顔のないことに舞はもう慣れてきているはずなのだけれども、それでもこうやって近くで見つめると、やはり違う人だなと感じる。遠い人だな、と……転校初日、一緒に怪物から逃げたことをもこの人は忘れてしまったのだろうか。でも、不思議なことに、冷然と構える司の横顔は幼馴染の司のなかには舞が見出せなかった、一種の美しさがある。舞の馴染んだ司は、舞にとっては「かっこいい」人であって、決して「美しい」と形容されるような人ではなかった。目の前にしている司が持ち得ているそれは、氷像の美しさであって、見るにはいいが触れる者の手を傷つける。それでも、綺麗なことには変わりない。司の手足ってこんなに長かったのかと、舞は改めて思い知る。


「おい」

「は、はいっ?!」


 舞の返事は甲高かった。


「やるのか、英会話?」

「へっ?そ、そりゃあもちろん!」

「じゃあさっさと始めろよ。こんな非実用的な会話をしたって、少しも生活に役立ちそうにないけどな」

「た、確かに、初対面でいきなり誕生日聞く人ってあまりいないもんね……」

「こら、京野!結城!日本語で喋るなって言ってるでしょ!」


 鳥居先生の怒号に舞は飛び上がり、結城少年は忌々しそうに、けれども先生には聞えぬように舌打ちをした。司の舌打ちなんて、聞きたくなかった……舞が悄然とするのもお構いなしに、司は流暢な発音で、けれども抑揚なしに言った。


「Hello. My name is Tsukasa Yuki. Nice to meet you……」

「は、Hello! マ、My name is……May Kyono!!」


 司の目が怪訝そうに一瞬舞の顔をとらえた。舞は司がせめて笑ってくれればと思ったが、司は表情を変えようとしなかった。司は舞を見ようともせずに言った。


「I’m from Tokyo. Where are you from?」

「I’m from Tokyo. Where……」

「When is your Birthday?」

「ま、My Birthday is July eleventh! And you?」


 舞は言い終わった瞬間、その質問の答えを予想して途端に胸がどきどきした。そうだ。私は司と同じ誕生日なんだ。だから、きっと、この結城司とも……


「……June eleventh」

「……えっ?」


 舞が聞き返すと、司は面倒くさそうに顔の半ばだけをこちらに向けた。


「June eleventh」

「えっ……June……六月?Julyじゃなくて?」

「そうだよ。誰もかもお前と同じ誕生日だと思うな」


 舞はもう、鳥居先生の声など耳に入らなかった。



 結城司と同じ誕生日ではない――そのことが舞に与えた衝撃はあまりにも大きかった。以前の幼馴染だった司は、舞と同じ七月十一日に生まれたのだ。だから、舞の母・美禰子と、司の母・未沙は、ただ病院で同室同士だったという以上に仲良くなったのだ。「まあ、この子たち、まるで一緒に生まれる約束をしてきたみたいね!」「もしかしたら、前世で恋人同士だったりして!」。母親同士の談笑は、他愛のない冗談に過ぎない。でも、舞にとっては、それが時々重要な意味を持つこともあった。もしかしたら、司にとっても……二人の誕生日が違うということは、舞と司の母親は病院で出会わなかったに違いない。一か月も違いがあるのだもの。どういう理由かはわからない。とにかく二人の誕生日が違ってしまったために、舞と司は幼馴染ではなくなってしまった。漆がどんな策略をめぐらせてそんなことができたのかはわからないけれど、とにかく全てはこのことが原因なのだ。


 でも、司が京都にいたことは?それに、司の母親がいつか町で見かけたように弱りきってしまったことは?ただ、二人の誕生日が違うということだけではどうも説明できない気がする。それとも、やっぱり……この世界は舞のいた世界とは別の場所なのだろうか。舞と司の運命が大きく違ってしまっている世界――私はどこに迷い込んでしまったのだろう。


「舞ちゃん、なんか元気ないじゃない。どうしたの?」

「なんでもない……」


 昼休み、舞は左大臣と翼と屋上に続く踊場で膝を寄せ合っていた。毎日そこで作戦会議といこうということが、つい昨日決まったばかりなのだ。美佳は昼連で忙しそうにしていたので、舞にとってもちょうどよかった。ただ、今日ばかりは一人になりたい気もしていたけれど。


「なーんでもなくないでしょっ?!給食だって全然食べてなかったし!」

「そうです、普段あれほど召し上がる姫様が!」

「……ちょっと食欲なかっただけ。本当になんでもないの」


 舞は自分の膝の中に顔を埋める。翼にはまだ司のことを話していない。なんだかひどく個人的なことに思われたから、夜の公園ではその話をしなかった。それに、舞はたとえ英語のテストで赤点をとろうとも、決して頭が悪い訳ではなかったから、自分が落ち込んでいる理由が、他人にとってはひどくくだらなく見えるだろうということも分かっていた。たかだか、好きだった人と、誕生日が違うというそれだけ。


 翼があっと声をあげた。


「わかった!結城司でしょっ!あいつになにか言われたんじゃないの?そういえば、四時間目が終わってから舞ちゃんの様子、おかしいもん!」

「ゆ、結城殿ですか……うーむ……」


 事情を知っている左大臣は難しそうな顔をした。こういうときは同性の勘ってちょっと煩わしいかもしれない。司の名誉を守るべく、舞は顔を上げ、一生懸命に頑張って微笑んだ。


「違うよ。まさか。結城君は全然関係ないったら」

「でも、あいつ、結構ひどいこと平気で言うでしょっ?だから……」

「さっきはなにも言わなかったよ。それに結城君って、本当はきっとそんなに悪い人じゃないはずなの……」


 そうだ。司はあんな人ではない。司は優しくて、明るくて、かっこよくて。そして、舞の幼馴染で、同じ誕生日で。結城司は道に迷って泣きわめく幼い舞の手を引いてしまった人のことだ。きっと私が取り戻さなければ……


「まあ、姫様のことは姫様ご自身にお任せいたしましょう……それより、翼殿、前世のことはなにか思い出されましたかな?」

「うーん……昨日今日とそれっぽい夢は見たけど。でも、あたし、正直前世のことなんてどーでもいいの。それより、漆うるしってやつを倒したい!」

「早まりなさるな。いずれにしても、姫様と翼殿の力のみでは無理でございます。少なくとも、今のままでは。もっと前世の記憶を思い出されたら、お力も強くなりましょうし、それになんといっても残る三人の四神を見つけなくては」

「そーんなことしてる間に、漆が世界を滅ぼしちゃったらどうするのっ?!」

「だから、急ぐのです!」


 はやりたつ翼に左大臣は積み上げた机の上から言い返す。二人はしばし睨み合っていたが、翼の方が相手に分があると判断したらしく、先に肩をすくめて降参した。

「四神ねぇ……つまり前世ではあたしの同僚だったってことでしょ?ぜんっぜん思い出せない。会ったらわかるってほんとなのー?」

「わかるよ」


 ようやく舞が口を開いた。翼と左大臣は、膝の上に腕を載せて突き出した両手を組んだまま指先ばかりを見つめている、やはりまだどこか元気のない舞を見つめる。


「私、わかったもん。翼ちゃんと会ったとき。会ったときっていうか、この間の体育のときだけど……翼ちゃんの姿が青龍の姿に見えたの。だから、きっと翼ちゃんが四神の一人だろうって、左大臣と話してたの」


 舞は首から下げた鈴を外してかざした。閉ざされた屋上の扉の上部には、外をのぞくための窓がついていて、そこから入り込む日の光が、音もなく震える鈴に触れてきらきらと拡散された。壁や、頬や、机や、天井に投げかけられ、ゆっくりと旋回する桜の花弁の影を、翼と左大臣はうっとりと眺めた。舞は無限に懐かしいけれども、もう戻ってはこないものたちに囲まれているような気がした。なんだか赤ちゃんをあやすための、あのくるくると回るおもちゃを連想させる。人は、あのきらきらした、ひたすらに愛情に満たされた時期へと帰っていこうとする。それが、もう二度と戻れぬものだと知りながら。人は喪失し続ける。最も美しい清らかな思い出を、生き続けることで濁らせていく。だから、こんな風に、あの時期の思い出が蘇るとたとえ幻想であったとしてもつい見惚れてしまうのだ。そして、人は、やがて過去というところにではなく、未来というところに、このくるくるとまわるおもちゃを見出す。命果てた先に始まる新しい生命の中に、このおもちゃを……そして人は死に、生まれ変わり、また思い出に再会し、また失っていくのだろう。


 いつになく、暗い、重たいことを考えたな、と舞は思う。舞は司を失った。司と再会するのは一体いつになるのだろう?そうして再会したとして、また喪失が待ち受けているのだろうか。


「きれい……」


 翼も舞にならって首からさげていた鈴をはずして掲げた。部屋の色彩ががらりと変わる。まるで深い海の中にいるかのよう。無数の桜の花弁たちは、ゆったりと泳ぐ魚影のように。左大臣が感嘆の声をあげた。翼は舞に向かってにこりと笑いかけた。


(こんなに美しいものなのかな……私たちの運命って……)


 翼に微笑み返しながらも、舞はそんなとりとめのないことを考えていた。

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