偽装 の心理20

真代橋署に着いたのは、西の空を陽が朱色に染めた頃だった。




鳴海は捜査一課の鏑木課長のデスクへ向かった。


鏑木は何やら書類に目を通していたが、


不意に眼前に現れた鳴海に気づいて、少し驚いた表情を見せた。




「課長、応接室空いてますか?」




「何だ?いきなり」


鏑木はそう言いながらも、鳴海の背後にいる三人に視線を投げた。


彼は氷山遊の姿を認めると、慌てたように席を立って会釈した。




「これはどうも氷山先生。このたびはまた捜査に


  協力してくださっているそうで・・・」




氷山遊は、それに答えるように、頸を傾げて、微かな笑みを浮かべた。


鏑木は氷山遊に向かって見せていた愛想笑いを引っ込めると、


鳴海の肘を掴んで、矢継ぎ早に問いただしはじめた。




「おいテツさん、どういうことなのよ?氷山先生から何を聞いたの?


  それに、あの女性は誰なんだ?説明してよ」




そう問われた鳴海も、


頭を掻きながら困った表情を、鏑木に向けるしかなかった。




「それがオレにもわからないんですよ。彼女、何も教えてくれなくて」


鳴海は小声で言いながら、氷山遊の方を顎でしゃくった。




「わかっているのは、あの若い女性、


  衣澤康祐の日記にたびたび書かれていた、


  百合加・・・前原百合加さんだということです」




鳴海の説明を聞いても、鏑木にはいまひとつピンときていなかった。


百合加という名も、今初めて耳にしたのだ。




「何で、逐一報告してくれないの?百合加って名前も初めて聞いたよ」




「そう言われましてもね、課長。


  ユングの娘のペースに付き合うしかなかったんですよ。


  彼女、いったい何を考えてるのか、さっぱりわからないんですから。


  この時点でもまだ見当がつかなくて・・・。


  オレだってまいってるんですよ」




鳴海の声は、鏑木の耳に囁くような小声ではあったが、


語気は強く、口を尖らせていた。




鏑木はため息をつくと、


頭一つ高い鳴海の肩を叩きながら、苦笑いを口に刻んだ。




「わかった。テツさんと氷山先生に任せる。


  応接室は空いてるから使って。それにしても、あの前原百合加って女性、


  顔を腫らしているように見えるけど、何かあったの?」




「それもこれからわかると思います」




「すべて判明したら、きちんと報告してよ」




鳴海はうなづくと、氷山遊たちの所へ戻って来て言った。




「前原さん、応接室へお通しします」


応接室は一階の奥まったところにあった。


河合聡史が簡素な扉を開けて、三人を入れると自分も後に続いた。




応接室は約十四平米ほどの広さで、決して広くはなかった。


そのほぼ中央に、6人がけの、茶褐色の皮革製ソファセットが、


木製のローテーブルを挟んで配置してあった。


側面の壁には、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵画が、


額におさめられて飾られている。勿論本物ではない。


スケールダウンされたイミテーションだ。




鳴海と河合は窓側のソファへ腰掛けた。


その大きな窓からは、ブラインド越しに黄ばんだ日差しが漏れていた。


向かいのソファに、前原百合加が座った。


氷山遊は彼女の隣りに腰を落ち着けた。




その直後、応接室の扉が開いて、


盆に四人分の使い捨てコーヒーカップを乗せた一人の婦人警官が現れた。


彼女は無言で、コーヒーカップを置くと、一礼して部屋を出て行った。


コーヒーは鏑木課長が、気を回してくれたのだろう。




鳴海はさっそくコーヒーカップに口をつけた。


舌が火傷しそうなほど熱かった。思わず声が出そうになる。


そんな鳴海の隣りで、いつものように河合がメモ帳を開いて身構えた。


その様子を見ている前原百合加の顔に、微かな警戒の色が浮かんだ。




それに気づいた鳴海は、


ゆっくりとした穏やかな声音で、彼女に言った。




「これは取り調べではありませんから、怖がらなくていいですよ」




鳴海はできるだけ順序立てて、時系列に質問をしようと考えていた。


いきなり核心を突くようなことは訊かない方がいいと思ったからだ。


特に女性に事情を訊く場合、それは重要なことだと、


長年の刑事の仕事をやってきて身についた経験則でもあった。


これは男女に限ったことではないが、


人は感情的になると、話に脈絡を伴わなくなることが多い。




百合加は数瞬、氷山遊の方を見た。


氷山遊はやさしく微笑むと、百合加を力づけるようにうなづいて言った。




「私に話した事を、彼らに話して」




百合加は両目を伏せると、鳴海に向き直り、


決意したかのように、両のまぶたを開けた。




 「私は康ちゃん・・・


  いえ、衣澤康祐さんとお付き合いをしていました」




鳴海は納得したように顎を引いた。鑑識課の長谷川が、臨場で見つけた


二人分の女性の毛髪―――ひとつは『龍来軒』の市来静江のもの―――の内、


不明だったもうひとつは、前原百合加のもので間違いはないだろう。




「十二月二日、つまり事件のあった当日、


  あなたは衣澤康祐さんの部屋にいましたか?」




鳴海の問いに、一呼吸の間を空けて、百合加は答えた。




「正確に言うと、その前の日、


  康祐さんの誕生日だった十二月一日からいました」




鳴海と河合は互いに顔を見合わせた。




「前日から?」




「はい。康祐さんの誕生日を祝うためです」




「二人きりで?」




「はい。その日の夕方に彼の部屋にケーキを持って行きました」




「なるほど。それで帰ったのはいつ?」




「帰りませんでした。その日は彼の部屋に泊まったんです」




「その日の衣澤さんの様子はどうでした?」




鳴海の質問に、百合加は声を強張らせた。




「彼は普段と変わらないように見えました。


  でも、食事を済ませた後、私を真剣な表情で見つめて、


  抱きしめてきたんです。強く・・・」




鳴海は無言でうなづいて、彼女に先を促した。




「それから、こう言ったんです。


  ごめん、ごめんって。彼は泣きながら謝り続けるんです。


  守ってやれなくて、ごめんって」




そう言った百合加の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


彼女の頬を伝う涙は、緩やかな基線を描いて顎で止まり、


ブラインドから差し込む斜陽の光を跳ね返して、


琥珀のような光を放った。




「衣澤さんが、あなたに謝った理由はなんですか?


  何か心当たりでもありますか?」


鳴海はことさらゆっくりと、穏やかな声音を意識して訊いた。




彼女は重大な何かを、告白しようとしていることは、


肌でわかっていたからだ。




百合加は膝に乗せていた両の手を握り締め、その小さな拳は白くなっていた。


彼女の胸は不規則に隆起していた。呼吸も浅くなっている。




鳴海は黙ったまま、彼女の答えを待った。




「私が、レイプされたからです」


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