偽装の心理 4

鳴海徹也と河井聡史の二人は部屋を出ると、

『龍来軒』に戻った。アルミ戸を開けると、店内は客で満席だった。

市来吉雄が麺を湯切りし、豚骨の香りのするスープを、

幾つも並んだ丼に注いでいる。

彼の「できたぞ」という掛け声とともに、

妻の静江が、タイミング良くそれらを客のテーブルに運んでいた。


鳴海は店内に入ると、

厨房で忙しく働いている市来吉雄が声を上げた。


「へい、いらっしゃい」

だが、入ってきたのが鳴海だと気づくと、顔をしかめた。

その額に一筋の汗が流れる。


「話は後にしてくれねえか?」

市来吉雄は小声で囁くように言った。

そして、見ればわかるだろうといいたげに、

店内を顎でしゃくる。玉あげを持つ手が止まった。

妻の静江は、鳴海の姿を見ようともしない。


「わかりました。話はまた今度伺います。

  それから、あの部屋の合鍵、しばらく預かってもいいでしょうか?」


「ああ、いいよ」

市来吉雄はぶっきらぼうに言うと、麺の湯切りを再開した。

鳴海たちが辞去しようとした時、

一人の作業着姿の中年の客が、静江に声をかけた。


「シズさん、この間は大変だったね。

  このマンションに住んでた男が、死んじまったとか」

その中年男は常連客なのだろう。

ビールを片手に餃子をほおばりながら、馴れ馴れしく、

まるで世間話をしているかのような口ぶりだ。


 酒が入っているからなのか、

それとも元来、この男がそういう性格なのかはわからないが、

話題のデリケートさにそぐわない、軽口といってもいい無神経な口調だった。

静江はそれに返事もせず、無視するかのように振舞っていた。


ふと顔を上げた彼女の視線が、束の間、鳴海の視線と交差した。

その数瞬の間、鳴海は静江の瞳の中に、

悲しみと恐怖の無い混ぜになった感情を見た気がした。


鳴海と河井は『龍来軒』を出た。


「鳴海さん、今からユングの娘に会いに行く予定ですよね?」


「そのつもりだ」


「だったら、アポを取らないと」

河井はそう言うと、コートのポケットからスマホを取り出した。

タッチパネルを素早く操作する。


「もしもし?氷山先輩ですか?河井です。

  これから時間ありますか?ええ、今からです。

  ・・・それがちょっと捜査のことで相談がありまして・・・。

  自殺なのか他殺なのかはっきりしない事件でして・・・」

河井は事件の概略を話し始めた。

その様子に気づいた鳴海が、

自分の口元に人差し指を立てて口を閉ざすように注意したが、

河井は素知らぬふりをしてしゃべり続ける。


「はい、ありがとうございます」

河井はスマホをポケットに戻すと、

鳴海の顔を見てニンマリとした。


「これから会ってくれるそうです」


 「河井、部外者に捜査状況を軽々しく話すんじゃない」

鳴海は苦虫を噛み潰したような、渋顔で言った。

しかし、河井の方は悪びれた様子も無い。


「だって、事件の内容を伝えないと、

  引き受けてくれるかどうかわからないでしょ?

  それに前にも言ったように、

  彼女は今まで何度も捜査協力してくれた人だし、

  部外者ってわけでもないですよ」

河井はそう言って、口を尖らせた。

鳴海はため息混じりに、仕方なくうなづいた。


それから二人は幹線道路まで歩くと、

空車のタクシーを目で追った。

寒風の吹く中、鳴海は彼の隣で、

足踏みをしながら体を温めようとしている河井に向かって、

話題を変えようと問いかけた。


「その心理学者さん、お前の大学の先輩って言ってたな」


「ええ、そうですけど」

河井は口をすぼめながら、白い息を吐いた。


「どこの大学だ?まさかここから遠いんじゃないだろうな?」


「いえ、近いですよ。港区三田の帝應大学です」

河井の返事を聞いて、鳴海は驚いた。


「帝應大学?一流大学じゃないか」


「まあ、世間ではそう呼ばれてますね」


「なんで、キャリアを目指さなかったんだ?

  そうしていれば、こんな寒空の中で

  立っていることもなかっただろうに」

鳴海は皮肉っぽく言った。

だがそれに気づいていないのか、河井は快活な声で答えた。


「目指してますよ。来年には国家試験を受けるつもりです。

  その前に、現場でも認められるような警察官になりたいんです。

  鳴海さんのような、ベテラン刑事の下で

  学べるなんていいチャンスですから」


「そんなこと言ってると、出世できんぞ」

鳴海は右手を上げて、タクシーを停めた。

二人は後部座席に乗り込むと、

河井が行き先をタクシー運転手に告げた。


道路は比較的空いていて、

帝應大学南側の正門に着いたのは、午後7時を少し回った頃だった。

十二月にもなると、この時間には空に星が瞬き始めている。

鳴海は鑑識から預かっている、衣澤康祐の30冊以上に及ぶ

日記の入った大きな紙袋を提げて、タクシーを降りた。


正面には6階建ての校舎があった。

一見すると、何の変哲も無いビルに見える。

その校舎の窓のあちこちから、明かりがのぞいていた。


河井は正門左側にある警備室に向かい、

常駐しているらしい一人の警備員に、会釈した。

その警備員は河井のことをよく知っているのか、

警帽に指を掛けながら会釈を返した。

彼の目線が、河井の後ろにいる鳴海に向けられた。


「僕の上司です」

警備員は河井の言葉に納得して、鳴海にも軽く頭を下げた。


「鳴海さん、彼女の研究室はこちらです」

河井は鳴海の先を歩いて行った。

しばらく歩くと、正門のビルよりふた周りほど小さな、

白い建物があった。玄関に下げられている看板には、

帝應大学第一研究室棟と書かれている。


河井は重そうな扉を押し開くと、鳴海を案内した。

室内は暖房が効いていて、二人ともそれぞれに

ダウンジャケットとコートを脱いで、腕に架けた。

玄関を左に曲がり、長い廊下を歩いた先の突き当たりの扉の前で、

河井は足を止めた。木製の古びた扉には、

白地に黒い文字のゴシック体で『氷山遊』と書かれた

ネームプレートが貼られていた。

河井はその扉を何度かノックした。

室内から間を置かずして、女性の声で返事があった。


「失礼しま~す」

河井は妙に間延びした声で言いつつ、扉を開けた。

研究室の中に入ると、そこは三十平米はある広さがあった。

床は淡く白いリノリウム。天井も高い。

だが、ブラインドカーテンのかかった窓以外の三方向の壁には、

天井にまで届く巨大な木製の本棚に占められていて、

広いはずの室内を狭く感じさせた。

その頑丈そうな、年季の入った本棚のふたつには、

大小さまざまな書物が隙間なく詰まっており、

もう一つには青やグレーのファイルが、

これもまたぎっちりと詰め込まれている。

そして奥まった場所には、重量感のある、

大きなアンティーク調の木製のデスクがあって、

背もたれの大きなチェアに一人の女性が座っていた。

デスクランプが逆光になって、鳴海たちのいる場所からは、

彼女の顔はよく見えなかった。


「すみません、こんな時間に」

河井の弁解に、女性の立ち上がる気配がした。

微かに甘い香水の香りが、鳴海の鼻をくすぐった気がした。


「氷山先輩、こちらが僕の上司の鳴海刑事です」

河井に呼びかけられて、その女性はようやく立ち上がった。

ハイヒールの甲高い足音をさせながら、

彼ら二人の方へは見向きもせず、

彼女のデスクのすぐ脇にある簡易キッチンに向かった。

湯沸しポットから、カップに何やら注いでいる。

香ばしい香りが鳴海の鼻をくすぐった。それは紅茶の香りだった。

女性はミルクピッチャーからなみなみとミルクを入れている。

紅茶のカップを手にすると、

女性は悠然と鳴海たちの方へ近づいてきた。


「初めまして、氷山遊といいます」

やっと、女性心理学者の姿が、鳴海の目に留まった。

と同時に彼は驚きを隠せなかった。


というのも、氷山遊と名乗ったその心理学者は、

鳴海の予想を大きくはずれて、ずいぶんと若かったからだ。

傍らにいる河井より若いのではないか?

しかも相当の美人だ。

セミロングの黒い髪は艶やかで、化粧気はほとんどない。

形のいい唇に、わずかに紅をさしているくらいだった。

だが、黒いワンピースの上から羽織った白衣と、

どこか冷徹な光を湛えている彼女の両の瞳からは、

何の感情も読めず、その若さにそぐわない理知的なものを感じさせた。


「真代橋警察署捜査一課の鳴海徹也です。

  捜査協力をしていただけるそうで・・・」


「河井君から、事件の概略を聞いただけで、

  まだ捜査協力するとは言ってません」

氷山遊の声は、水晶を共鳴させるような、

美しくもどこか氷を連想させるような響きを持っていた。


「詳しいお話をお聞かせください」

氷山遊は紅茶を一口飲むと、

自分の机に腰を預けて、鳴海を正面から見据えた―――。

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