偽装の心理 2

真代橋署の2階、捜査一課のデスクに鳴海徹也の姿があった。

捜査一課の刑事は、鳴海と鏑木一課長を含めて12名。

だが、今はそのほとんどが出払っている。

刑事見習いの河井聡史は

自分のデスクにへばりつくようにして、

なにやら勉強をしているようだ。

鳴海はそんな彼を一瞥いちべつすると、手元の書類に再び視線を落とした。


鑑識課と監察医、それぞれから

報告書と司法解剖結果が届いたのは、

事件から1週間経ってからだった。

鳴海はまず、司法解剖結果の書類に視線を落とした。

そこで特定された死因は、全長約270ミリ、刃渡り約140ミリ、

刃の幅最大約22ミリの鋭利な刃物による、心臓への一突き、出血死とあった。

これには、鳴海も何の疑問も抱かなかった。

現場で見た通りだったからだ。

その次に目を通した鑑識課からの報告書には、

『他殺、自殺のどちらとも判明せず』と書かれていた。

その一文を読んで鳴海徹也は、

苦虫を噛み潰したようないくつもの皺を、顔に刻んだ。

彼は受話器をとると、捜査一課の部屋から内線で、

6階にある鑑識課へ電話した。


「長谷川を出してくれ」

鳴海の声は不機嫌だった。

椅子の背もたれに体重を預けたまま眉間の皺に手をやり、

右足は貧乏ゆすりを始めている。


鳴海は長谷川を鑑識官として、

絶大ともいえる信頼を寄せていた。

長谷川は、2ヶ月ほど前まで鳴海が配属されていた

千葉県警下の所轄署で、5年間共に捜査をした仲でもあった。

この真代橋署で再会した偶然を、互いに喜び合ったものだ。

そして、長谷川悟郎と組んで捜査したこの数年の間で、

鳴海が長谷川悟郎に対して知りえたことは、

彼が極めて優秀な鑑識官であることだった。

長谷川は『現場』にある、どんな小さな手がかりも見落とさない。

1本の毛髪も、砂粒以下の皮膚の欠片でさえ見逃さない、

『すべてを拾う男』として、鳴海の記憶に刻まれていた。

今までに幾度と無く暗礁に乗り上げそうになった難事件の数々を、

長谷川の見立てで解決に導くことができたことか。

刑事として二十年以上になるが、

長谷川悟郎という男は鳴海徹也にとって、

屈指の鑑識官の一人でもあったのだ。


その長谷川が、今回の事件の見立ての判断が下せないという

報告をしてきたことが、鳴海は解せなかった。


『鳴海さん、長谷川です』

鳴海の耳に届いた彼の声は、

幾分緊張しているように感じられた。


「お前にしては珍しいじゃないか。他殺か自殺かもわからんとは」


『そう言わないでくださいよ、鳴海さん。

  俺にだってわからないことはありますよ。人間ですからね』

長谷川の声音は、どこか自嘲しているようにも聞こえた。

だが、笑ってはいなかった。


『報告書は見てくれましたか?』


「ああ。使われた刃物は、特殊なものみたいだな。

  M16ライフルに使われるM7銃剣・・・か」

鳴海は呟くように言った。


『ええ。アメリカ軍の海兵隊・陸軍・海軍・空軍が

  ベトナム戦争後から採用していた銃剣で、

  ミリタリーマニアには人気のあるものだそうです』


「衣澤康祐はミリタリーマニアだったってことか・・・」


『それは違うと思います』

長谷川は語気を強めて、断言するように言った。


「違う?」


『はい。衣澤康祐の部屋からは、

  その銃剣以外、軍ものやミリタリー系の品物は見つからなかったんです。

  あったのは、そのM7銃剣だけでした』


「だったら、外部から持ち込まれた可能性も否定できないな。

  そうなると、他殺・・・しかし、室内で争った形跡無しとあるな、

  ううむ・・・」


『それともうひとつ、

  現場から女性のものらしき毛髪が2種類見つかっています。

  これは少なくとも二人の女性が、

  衣澤康祐の部屋を訪れていた証拠です』


「なるほどな」

鳴海は報告書のページを捲りながら、確認するように言った。


「現場には複数の指紋があったとあるが、

  その女性二人の可能性が強いということか」


『ええ、その可能性は充分にあると思います。

  ただ指紋だけで、男性か女性かを判然とさせるのは

  簡単では無いんです。

  鳴海さんもご存知でしょうけど、

  線が太い指紋は、男性の場合が多いですが、

  逆に、形が小さくて、線が細い指紋は女性の場合が多いんです。

  でも、女性でも太い指の人もいますし、

  男性でも華奢な指の人が稀にですが―――、います。

  ですから、指紋だけで性別を決め込むには

  難しいと思いますよ』


「しかし、毛髪は女性のものしか見つかっていないとすると、

  その指紋も女のものであると考えるのが自然だな」


『推理は鳴海さんに任せます』


「そうだな。それはオレの仕事だ」

今度は鳴海の方が、自嘲気味な笑みを浮かべる番だった。


「第一発見者は、同マンション1階の『龍来軒』の主人の妻、

 市来静江52歳。食事を差し入れに訪問したところ、

 衣澤康祐の遺体を発見。当時、玄関に施錠はされていなかった。

 ドアノブからは、複数の指紋を採取―――か」

報告書の束を捲めくっていた鳴海の手が、『遺留品』のページに止まった。


そこには『日記・大学ノート37冊。

  本人以外の指紋は検出されず。

  他に、衣澤康祐が死亡する前日のページに、

  本人のものと推察される、涙の成分、

  ナトリウムやカリウムの電解質、

  アルブミンやグロブリンなどの蛋白質を検出』とあった。


涙―――?

鳴海の心に、何か引っかかるものがあった。


「長谷川。仏の書いた、その日記をちょっと見せてくれないか?」


『ええ、いいですよ。お待ちしています』

鳴海は受話器を戻すと、深いため息をついた。

長谷川ほどの鑑識官でも判然としないこの事件の真相を、

掘り出さなければならないのだ。

それは容易なことではないことは確かだった。

束の間、心ここにあらずといった状態だったのだろう。

鳴海は自分の名を呼ぶ声に気づかなかった。


「テツさん、テツさん!」

鳴海は椅子を回して振り返った。

見ると、鏑木一課長が、手招きしている。

鳴海に親しく、彼より階級が上の者は、

彼のことを『テツさん』と呼んでいた。

鳴海はまたため息をつくと、立ち上がって鏑木のデスクに向かった。


「北乗物町の事件ね。アレ、テツさんに任せるから」

鏑木は椅子にすわったまま、茶を一口すすって言った。


「は?」

と鳴海。


「鑑識からの報告書読んだよ。

  本庁も出張って来る様子も無いし、

  自殺ってことで裏とってもらえないかな?」


「しかし、まだ決まったわけじゃ・・・。

  他殺の可能性もまだ消えてないですよ」


「鑑識は他殺っていってるわけなの?」

鏑木一課長は、意地悪気な視線を鳴海に向けた。


「いえ、オレの勘です」


「テツさん、今どき刑事の勘だなんて言ってたら、

  若い連中に笑われるよ。

  まあ、同じノンキャリの私だから、

  事件をじっくり捜査したい気持ちはわからないでもないけどさ。

  現代の警察に求められるのは、スピードだよ。スピード。

  迅速かつ的確な処理。それでなくても事件は山ほど抱えてるんだから、

  小さな事件に時間を割いてる暇はないの。ということでよろしく。

  あ、そうだ。しばらく河井を付けるから、

  テツさん、みっちり鍛えてあげて」

鏑木一課長はそこまで一気にまくしたてると、

河井聡史を呼んだ。


「じゃ、後は任せたよ」

鏑木はそう言うと、この話はもう済んだというように、

そっぽを向いて別の書類に目を通していた。


鳴海は軽くため息をつくと、6階の鑑識課へと続く階段へ向かった。

彼の後を、河井が慌てて追う。


「鳴海さん、エレベーター使わないんですか?」

鳴海の背後で、河井が息を弾ませながら言った。


「たった6階だろ。7階までは足で昇るんだ。

  お前、若いうちから体を甘やかしてると、

  一人前の刑事にはなれないぞ」

鳴海の叱咤に、河井聡史は無言の返事をした。


鑑識課は長い廊下を突き当たった左側にあった。

鳴海はノックもせずにドアを開く。

真代橋署の鑑識官は7人。それぞれにデスクが割り当てられ、

その上にはパソコンとモニターがあった。

壁には大型の書棚が設置されてあり、

資料や書類がひしめくように詰め込まれている。

それにコピー機やダンボールの山で、

広いはずの部屋がやけに狭く感じられた。更衣室は別部屋にある。


「あ、鳴海さん。どうぞ」

鳴海の姿を目に留めた長谷川悟郎が、軽く会釈した。

それから、足元から大きくて丈夫そうな紙袋を持ち上げ、

デスクの上に置いた。


「それが例の日記か」

鳴海は足早に向かうと、その紙袋を覗き込んだ。

確かにたくさんの大学ノートの背表紙が見えた。


「これは机の書棚にあって、血痕の跡もほとんど無く、

  保存状態が良かったんです」


「内容は読んだのか?」


「いえ、1ページ。1ページ、

  指紋や遺留物が無いか調べはしましたが、

  どんなことが書かれているかまでは・・・」


「そうだよな。それもオレの仕事だ」

鳴海はそう言うと顔を上げ、いたずらっぽく笑みを浮かべた。

そして、その紙袋に手を突っ込むと、数冊をまとめて取り出した。

それらの大学ノートの表紙を眺める。

古くなって黄ばんだものから、比較的新しいものまであった。

日付は6年前からのものだった。大学ノートのページを

パラパラと捲ってみる。日記は鉛筆で書かれていた。

ページはどれも、細かな文字で埋め尽くされている。


鳴海は衣澤康祐が死亡する数日前の、数ページを大まかに目を通した。

そこには彼が描いている漫画作品の構想や、アイデア、

それに日々の雑記のような内容のものが

書かれているだけのように思えた。


「しばらく預かっててもいいか?」

鳴海は長谷川に向き直って言った。


「ええ、構いませんよ」


「それじゃ。邪魔したな」

鳴海が鑑識課を出ようとすると、

彼の背中に向けて長谷川が言った。


「鳴海さん、今回の事件、オレも気になってるんです。

  真実を知りたい―――というのが正直な気持ちです。

  何かわかったら、知らせてください」


長谷川の声音には重みがあった。それも当然とも思えた。

鑑識官として、他殺か自殺かも見立てができなかったことに、

歯がゆい思いをしているのだろう。

鳴海は肩越しに顔だけで振り返って、長谷川に答えた。


「任せとけ」

とは言ったものの、鳴海の気分は重いままだった。

そして、それと同時に、この一見単純に見える事件の真相には、

言い知れぬ何かが潜んでいるようにも思えてならなかった。


鏑木課長にまた笑われるかもしれないが、

それは刑事・鳴海徹也の勘としか言いようのないものだった―――。

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