第58話 在宅いいですか?

 二日間の休みも瞬く間に過ぎ、月曜日。


 また仕事、仕事の日常が始まろうとしている。

 今日も少し早めの電車に乗り、会社へと到着するや否や仕事に没頭する俺だった。


「やあおはよう要君! 今朝も頑張っているようだね」


 ダンディ課長の清々しい挨拶と激励が背後から投げかけられる。


「あ、おはようございます課長。今週もバリバリ行かせてもらいますよ!」

「ああ、よろしく頼む。ところで少し時間良いだろうか?」

「え、今ですか?」

「ああ、そんなに時間は取らせないよ」

「はい、分かりました」


 課長は、きりりっとした渋い表情で含んだように言う。

 ここでは話せない内容の事なのだろうと俺も理解したのですぐに快諾した。

 俺も課長に用件があるのでちょうどいい。できれば俺の話も他の人には聞かれたくない。特に隣の後輩君は、何を言って来るか想像がつくからね。


 課長に連れられ個室へと案内される。

 個室といってもあの時のようにトイレではない。会議室である。

 普段から会議など余りする会社ではないので、久しぶりに会議室なんて来たよ。


「課長、何かあったんですか?」

「ああ、君に貰ったあの魔法の薬。あれは人生を変えるものだ」

「あはは、大袈裟ですよ」


 いや、大袈裟ではない。髪の毛があるなしで、これほど自分というアイデンティティーを劇的に変化させるものはないのではないだろうか。

 ましてその魔法の毛生え薬は、この世界では製造できない代物とくれば、それを実体験した俺や課長は、それこそ類稀なる幸運を手にしたのだ。

 ──そう、選ばれし者なのだ!!

 異世界人と出会わなければ数年後には、きっと俺も以前の課長のように、落ちぶれた人生を歩んでゆくことになるだろうと、今なら簡単に想像できてしまう自分が怖い。

 最悪な人生、未来の俺を救ってくれたのは魔法の毛生え薬! じゃなくてエンデル達かもしれない。


「いやいや、大袈裟なんてものじゃない。まさに生まれ変わったようだよ」

「あはは、それは良かったです」

「ああ、ありがとう。ところであの薬はもう手に入らないのだよね?」

「あ、ええ、前も言った通り、あの瓶の中身だけです。もう手に入れることはできないでしょう」


 ピノもこの世界では作ることはできないだろうと言っていた。

 材料もそうだが、自分の魔力が回復しない事には、最終的に魔力を籠めることができないという話である。


「そうか、それは非常に残念だな……もしも量産できれば、間違いなく世界一の富豪になれるかもしれないのに……」


 確かに完璧に髪の毛が復活する薬となれば、金に糸目をつけない人は沢山いるだろう。カツラでさえ数百万とするのだから、数千万払っても地毛が戻るなら安いものだ。

 ぐふふふふっ、完璧に大富豪になれるな……って、何考えてんだ。それは無理だから。


「あいや、やめて下さいよ課長。前も言った通り、あまり公にしないでくださいよ?」

「あははははっ、分かっているよ。おそらくあの薬は本当に魔法の薬なのだろうからね。この時代で作れるようなものではないことは、重々理解しているよ。経験者の僕でなかったら信じられない事だからね」

「ええ、頼みますよ。本当に内密にお願いします」


 こんなことが世間に公表されたらとんでもない事態になる。

 この事実は墓まで持って行くべき事案だろう。この世界に公表すべきものではけしてないのである。魔法の薬。その魔法はこの世界にはあり得ないものなのだから……。


「約束は死んでも守ろう。恩人の君に迷惑など絶対に掛けないと再度ここで誓うよ」

「いや、だからそれは大袈裟ですよ……」

「あははは、そこでお願いがある」

「はい、なんでしょうか」

「あの薬についてなんだが、とりあえず秘密を厳守の上一人には使ったのだが、残り数人分まだあるんだ。もし良かったら全部使っても構わないだろうか?」


 早速一名に使ったのか。その人も大喜びだったことだろうね。


「ええ、それは構いませんよ。俺はもう使いませんので、自由に使ってください」

「そうか、ならこれは大切に使わせてもらうよ!」

「あ、使う人には口止めを忘れないでくださいね?」

「あははははっ、それは大丈夫だよ、髪の毛が復活したら、それだけで口も堅くなるものだよ」


 まあそうだろうね。髪の毛が生える喜びで、約束事を反古する人は少ないだろうと思う。

 念のため、ハーゲンさんとやらに使った薬も今度取り寄せてもらおうかな? 約束を破った人には、問答無用でハゲ薬を使用する罰を与えると言い含めておけば、絶対に話すことはないだろうね。


「よし、これで堅固な基盤が出来上がる。この会社の改革も加速的に進むことだろう。要君楽しみにしていてくれたまえ」

「は、はあ……」


 熱い、これほどの熱い心を今までどこに隠していたのだろう。


「あ、それはそうと課長にちょっと俺からもお願いがあるんですが」

「ん、なんだね? 君のお願いなら何でも聞こうじゃないか。筆頭信者の僕が責任をもって君の力になるよ」


 あのう、信者って何でしょうか……神様とかじゃないのでやめて欲しいのですが……。


「実は暫く在宅勤務を許していただけないかと思いまして……」

「ん? 在宅? ネットから社のシステムへの接続はできないが、どうするのかね?」

「ええ、そこは手段といいますか、ちょっと方法がありまして……」

「方法? そんな方法があるのかね?」


 あまり詳しい説明はしたくないのだが、協力してくれると親身に言ってくれてる以上、ある程度の説明は必要だろう。

 俺はこの方法に関しても内密にという事を念押しし、話せる範囲の事を課長に説明したのだった。最初こそ信じられないといった表情をしていた課長だが、魔法の毛生え薬を身をもって体感している課長にとっては、俺の摩訶不思議な在宅就業案も、さらっと納得してしまった次第だ。


「なるほど、その詳しい方法は秘密らしいが、それが本当の事ならまるで魔法でもなければできないような事だね」

「あはっ、まあ、毛生え薬同様、魔法みたいなものですね……」


 魔法といわれてドキリとするが、魔法なので仕方が無い。こちらの世界ではたぶん説明できない事柄だからね。亜空間を説明する気にもなれないよ。


「要君がそう言うのなら大丈夫なのだろう。通勤時間もバカにならないからね。その時間分を仕事に傾けてくれるのなら、会社としても、いや、僕達の今後にも非常に有効な仕事効率になるだろうしね」

「そうですね。仕事量的にも1.5倍くらいは進捗状況も上がるでしょう。社内メールも使えるので、仕事に手間取っている人の応援も可能でしょうからね」


 まあ時間的に余裕が出る分これまでよりも多くの仕事をこなすことも可能になるだろう。


「わかった、許可しよう。部長の事は気にしなくてもいい、要君には僕が違う仕事を頼んだという事にしておくし、そもそももうあの部長の好き勝手にはさせない積りだ。今後は社員全員の待遇も改善していこうと思っているし、給与面も能力給に変更していこうと思っている。能力に見合った給料を支払うことで、みんなの仕事に対する姿勢も改善できるのではないかと考えているからね」

「という事は、仕事を多くこなせば、それなりに給料も上がるという事ですか?」

「ああ、そうしてゆくつもりだよ」


 おおっ! それは良い考えだ。

 というよりもやっぱりこの会社を乗っ取る積り満々みたいだな。まあ応援はするけどね。


 という事で許可ももらったので、明日から早速在宅勤務をすることに決めた俺だった。


 自分のブースに戻って仕事を再開する。

 パタパタと気分良くキーボードを叩いていると、またもやパーテーション上部から声が降って来る。


「おはようございます要先輩。課長に何か言われたんすか?」

「おお、おはよう後輩山本君。ああ、課長に別の仕事を依頼されてね」

「別の仕事っすか? て、もう今の仕事終わったんすか?」

「ああ、もうすぐ終わるぞ」

「ええ~早いっすね。さすが彼女ができると違うっすね。今迄の先輩のどこにそんなバイタリティーがあったんすか?」

「うるせえよ、隠していたんだよ。後輩君のペースに合わせてたんだよ!」

「別に合わせてくれとは頼んでなかったと思うんすけど……」


 まあ頼まれていないね。

 だが、早く終われば終わったで、貧乏くじを引く確率が高くなるのだ。みんなと歩調を合わせていただけだからね。


「というより、お前もこれからは普通に仕事した方が良いぞ。無理に出来ないふりなんかしたらこれから損するぞ?」

「なんすかそれ?」


 こいつも向上心がないのか、みんなと歩調を合わせている節が見え見えだった。仕事的には能力が高いのに、わざと能力が低いように装っていたのである。

 この会社で向上心を持ったところで、今まではこき使われるだけだったからだと思うが……。


「言葉通りだよ。今後は能力給になるかもしれないそうだから、今の内から通常の作業に戻しておけよ」

「ふーん、そういえば、昨日も課長がもう休日出勤は減らすようにと全員に言って回ってたっす。それも関係があるんですかね? ていうか、取締役の部長が黙ってないような気がするっす」

「へー、そうなのか。もう動き始めているみたいだな……ところでお前は今何の仕事をしてるんだ?」

「ボクは今VR系のプログラミングをしているっす。これ意外とやりがいがあるっすよ」

「ほう、そうか。確かお前はゲームが好きだったよな」

「ええ、そうっす。最近は余り時間が取れないっすけど、学生時代はかなり嵌ってたっす」


 趣味が高じてプログラミングの世界に入ったと言っていたけど、こんな会社に入ってしまったのが運の尽きだろう。

 でも、ゲーム関連の仕事も多くあるので、彼自身は満足しているみたいだが……。


「まあがんばれよ。上手く行けば今後は残業も休日もしなくて済むし、仕事さえ順調ならいつ出社して、いつ帰ってもいいようになるかもだからな」

「へー、そうなんすか? あれ、でも先輩はどうするんすか? なんか他人事みたいに言ってますけど」

「まあ俺は課長命令で他の仕事することになった。だから明日から月に1、2度出社する感じになるよ」

「うわー、なんすかそれ? エンジニアの仕事じゃないんすか?」

「いや、それもちゃんとするぞ。ただ出社しないだけだ」

「クビ、じゃないっすよね?」

「今クビになったら困るんだよ、だからクビではない」


 今クビになったら、貯えもすぐに無くなってしまう。給料は必要だからね。


「まあ頑張りたまえ。陰ながら応援しているからな」

「応援はいらないっすから、彼女紹介してくださいっすよ」

「うーん、まあ、その内な。てより仕事だ仕事、ちゃっちゃと仕事しろ!」

「はーい、でも絶対紹介してくださいっすね」


 紹介する気はないが、いつまでも無駄話をしている訳にもいかないのだ。


「はいはい、その内な……」


 俺が気のない返事をして仕事に戻ると、後輩山本君は唇を尖らせながらパーテーションの奥に沈んでいった。



 さあ、明日からは在宅勤務だ。頑張るぞ~! おおーっ!!

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