第32話 社畜は社畜なりに頑張る

 翌朝、俺は社畜としての日常に戻る。


 気怠く重い頭で目を覚ます俺は、エンデルを寝かせたままベッドを抜け出す。

 もちろん今日も一線を引いていたはずが、やっぱり抱き枕状態になっていたことは内緒である。それよりもいつまで俺の欲望を押さえていられるかが問題である。

 その内無意識に襲ってしまいそうな自分が怖い……。


「ああ……行きたくねえ……」


 ふと現実に引き戻されると、この3日間のエンデルとの目まぐるしくも楽しかった時間を思い出し、いっそう会社へ行きたくなくなる俺がいる。

 着替えるワイシャツがめちゃくちゃ重く感じ、ネクタイが拘束首輪のように思えてくる。

 社畜へと戻る憂鬱さ。エンデルが来る前はこんな毎日を当たり前のように過ごしていたのかと思うと、人生を悲観してしまう俺がいた。


「ああ……マジで辞めたくなってきたな……」


 すやすやと気持ち良さげに眠るエンデルの可愛い寝顔を見ると、余計に足が重くなってきた。

 本当に辞めてもいいのだが、エンデル達がここにいる以上お金は必要である。すぐに転職などできないだろうし、嫌でも仕事に向かうしかない。休めば給料も減る一方だからね。


 朝食用に買って置いた菓子パンをひとつ牛乳で胃の中へ流し込みアパートを出た。

 会社まで1時間半強かかるので朝も早めの電車に乗る。終点駅が近いという事は、始発の駅も近いという事だ。高確率で座席に座れるのでその辺りだけはありがたいものだ。


 都心に近づくに連れぎゅうぎゅうに混んでくる電車。月曜の朝から疲れきった顔のサラリーマン、隣の小太りなおっさんにくっつかれて嫌な顔をするOL。よくもまあこれだけの人達がいるものだ。

 こう考えてみれば、会社の実態はアレとしても世の中の人達は、多かれ少なかれ体良く会社というものに飼われている、社畜と言ってもいいのかもしれないな……。

 そんなふうに思えてくる。


 俺は満員電車に揺られながら会社へと向かうのだった。




 会社に着くとすぐにパーテーションで区切られた、自分のブースに行き、コンピュータを立ち上げた。

 缶コーヒーを机の上に置き早速仕事に取り掛かる。

 朝礼など滅多にしない会社。そんなきっちりした会社なら、ブラック企業にはならないだろう。タイムカードは一応あるが、時間など端から集計していない。会社に出てきているかどうかの確認だけである。

 どうせ社員の出勤簿の出欠残業の部分は、確実に改竄されているのだろうから。


 定時で帰る為には、1分1秒が惜しい。まだ始業時間ではないが早速仕事に取り掛かる。

 課長が出社して来たらその旨報告しに行こうと思ったのだが、


「おはよう要君……長期休暇はどうだったかね?」


 資料を拡げ、さあ取り掛かろうと思った矢先、そんな声を掛けられた。

振り向くとそこには、少なくなった髪の毛を神経質に搔き上げる、カッパの課長が疲れ切った表情で立っていた。

 しかしそんな嫌味くさい朝の挨拶ありか?

 たかが一日休みを貰って、土日を当然のように休んだだけで長期休暇はないだろうに……。


「おはようございます課長。金曜はすいませんでした」

「いいんだよいいんだよ、他の者が苦労すればいいだけだからさ、というより僕がね……」

「……」


 なんかすごく嫌味臭いんですけど……。


「すいません、でも期日までには自分の仕事は仕上げますので、迷惑はかけないようにしますから」

「あのね要君、期日なんてあってないようなものなんだよね。君が早く上げてくれないと、どんどん先が詰まって行くんだよ」

「は、はあ……」

「だから休んだぶんも早く終わらせてね」


 そんな事だからこの会社はダメなんだよ。

 仕事を早く納めると、即次を渡される。糞真面目にそんなことをしている奴は決まって貧乏くじを引く。

 けして俺がそうだとは言わないが、有能な人材ほど割りを食う会社なのだ。

 小狡い奴はチンタラ仕事をして、折を見計らって提出する。仕事の遅い奴は、計算ずくなのか、それでもがんばっているのかどうかわからないが、仕事の早い奴の半分も仕上げられない。

 それでいて給料の格差はあまり無いとくれば、有能で仕事の早い奴の不満も蓄積されるというものだ。


 だからそういった人から次々と辞めて行く。

 残るのはクズみたいな奴が、愚痴を零しながらも居残る会社だ。

 有能な奴は自分の能力をより発揮できる場所を求め早々に見切りをつけ、この会社に居残る奴は、他の会社でも使い物にならないようなクズばかりがしがみ付くようにして残留している。

 斯く言う俺も、その内の一人といってもいい。今迄半分は諦め、周りの進捗に合わせてだらだらと仕事していたのだ。でも仕事はきっちりと遅れることなくギリギリに提出している。それなりに良い仕上がりなので、文句を言われることが少ないが。

 という訳で、人材的に完全に負のスパイラルに嵌まっている会社なのだ。

 まあ全員が全員じゃ無いとだけは補足しておく。このカッパ課長も、仕事はそれなりにできる人だ。だから貧乏くじを引くのだ……。


「分かりました、なるべく善処しますね。それとは別に今日から暫くは定時で上がらせて貰います。仕事には支障をきたさないようにしますので、了承願います」

「ダメだよ! それは許可できない」


 俺が定時で帰ると言うと、カッパは間髪を容れず却下する。

 まあそれは織り込み済みだ。この会社の悪いところでもある。残業代を出さない割には残業を強要し、残業していれば仕事をしていると勘違いしているところだ。だからみんな昼間の仕事も集中してしないのである。どうせ残業なんだから、少しサボってもいいだろう的な。

 斯く言う俺もそんな風に思っていたのは、ここでは内緒にしてほしい。だって真面目にやったら余計仕事を振られるのだから……。


「何を言っているんですか? 仕事よりもプライベートが優先です。勤務時間外は自由なはずですよ?」

「建前はそうだが、そんな余裕があるなら仕事をしてもらわなければ困る!」

「だから外せない要件だと言っているじゃないですか。俺にとっては仕事より重要なんですよ? だいたい残業代も支払わない会社が何を言っているんですか? 権利を主張するなら、社員の権利を保障してからにしてください」

「そ、それはそうなんだが……」


 カッパは困り果てた顔で頭の皿を撫でる。おっと失礼、頭を撫でた。


「いいんですよ、こんな会社いつ辞めたって。それにいつでも監督署に行く準備はしていますからね。タイムカードのコピーも一年分以上は保管していますし、理不尽な残業を強要している会話も何件かスマホに録音していますから、是正勧告間違い無いですよ? いや、今までの社員全員の残業代の支払い命令が来て、こんな会社潰れてしまうかもですね」

「か、要君! それだけは勘弁してくれ、ここで職をなくしたら家内になんて言われるか……」


 俺の脅しとも取れる物言いに、カッパは顔を蒼くしながらそんなことを言う。

 これが緑色だったらほんとにカッパに見えるよ。キュウリをあげたくなるね。

 まあ今まで辞めていった人たちも、残った人を不憫に思って監督署に垂れ込まなかったのだろう。と言うより、こんな面倒な会社にもう一切関わりたく無いと思ったのかもしれないな。


「課長ならどこでも使ってもらえるんじゃないですか? こんな会社に固執することもないでしょ?」

「そんなこともない……もう歳だし、転職しても今の給料より下がってしまったら、家内に殺されるよ……」


 なんとも情けない人である。

 奥さんの尻に敷かれ過ぎだろ! もっと亭主としての威厳を持ちなさいよ!

 そう言ってあげたい。


「でも本当に暫くは残業できませんから。その分時間内はちゃんとして、なるべく早く提出しますよ」


 サービス残業なのだから、別にお伺いをたてる必要はないんだけどね。

 まあ一応カッパは上司だから話だけは通しておかないといけない。


「わ、わかったよ、ただ、君の仕事が少しでも遅れるようだったらそれなりのペナルティーは覚悟してよ? 僕だって上に言われるんだからさ……」

「はい、課長には迷惑掛けないように気を付けますよ」


 ほんと気の弱い人だね。

 のほほんと気ままにしている上層部の奴等にあーだこーだと結構言われているんだろうな。心中察するよ。

 でも基本的にこのカッパは嫌いではない。それなりに頑張っている姿を見ているから、俺としてはカッパに何を言われても許してしまうのだ。


「それじゃあ仕事に掛かりますので」

「ほんとに頼むよ要君……」


 カッパ課長はそう力なく零しながらトボトボと去っていった。

 もう少しドンと構えていれば部下も付いてくるんだろうけどね、あれじゃあ上層部の言いなりの、ただの陰険な上司にしか映らないよな……。

 そう思いキーボードを叩き始めると、パーテーションの上から声が降ってくる。


「先輩凄いっすね! あのカッパを丸め込むなんて。これぞカッパ巻き!」


 後輩の山本君がパーテーションから頭をひょっこりと出しそう言ってくる。


「上手いなお前。こんな仕事より向いてる仕事ありそうだな?」

「ヘヘヘっ、でも定時で帰るなんてなんかあったんすか? もしかしてこれでもできたっすか?」


 ニマッ、といやらしくニヤケながら小指を立てて訊いてくる後輩山本君。

 いつの時代の隠語かな? 私はこれで会社を辞めました。みたいなCMかなり昔にあったような気がするが……。


「まあな、向こうさんの話に依れば、もう俺は結婚までしているそうだ」


 俺はキーボードを叩きながら相手をする。


「ええええええええええええええええええっ! マジすか!? い、いつの間にそんな人と知り合ったっすか? 毎日残業、休日まで返上の社畜、要先輩に!」

「人のこと言える立場か! 山本、お前だって社畜じゃねーか!」

「ヘヘヘっ、ごもっともす。って、どこで、いつ、なんで、そんなうらやましい事が……」

「木曜の夜中に出会った。そしてそのまま結婚したらしい」


 めんどくさいので、キーボードを打つ手を止めずに流して言う。


「……へっ? 何それ?」


 後輩山本君は納得できないようだ。

 まあ仕方がない。そんな急展開がそうそうある訳がないのだ。でも本当のことだからしょうがない。


「まるで小説みたいっすね? 出会った瞬間『ビビッと来ました! 結婚して下さい!』的な?」

「なんかそうらしいぞ。俺じゃなく相手がな……」


 出会った瞬間ビビッ、とじゃなく、杖でコツンだけどな。


「えええええええええええええええええっ! マジすか! そんな奇特な女の子この世界に居ませんよ!? 羨ましいっす!!」

「ああ、俺もそう思う。確かにこの世界の子じゃないし」

「へっ? なんすかそれ⁇」


 おっと、余計なことまで言ってしまった。


「いいからお前も早く仕事しろ! また休日返上になるぞ?」

「いやそんなことより先輩、どこの女の子なんすか?」

「うるせーよ仕事の邪魔だ!」

「ねぇ〜先輩〜教えて下さいよ〜」

「うるせーって、気が向いたら教えてやるよ」

「約束っすよ、先輩! 気が向いたら俺にも誰か紹介して下さい!!」

「自分で探せ! てより仕事しろ!」

「はーぃ先輩……」


 後輩山本君は渋々仕事に向かう。




 そんなこんなで、バリバリと仕事する俺だった。

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