メディアに踊らされるのが人間

鉄の塊に乗る老人や

失うものがない人達が

罪のない命を奪っていくんだ~


という歌詞が、実際にありそうな気さえしてきます。

暴走した車で人がはねられたり、時に”無敵の人”と称される人間が通り魔的犯行を行ったり。

動機も不明な殺人事件が起こったり、恐ろしい話です。

もはや、外に出ないのが一番安全だな、と思うばかりの世の中になってしまいました。一体なぜこうなってしまったのでしょうか。というのは、私ならよくやってそうな考察なんですけど、もうやってもやっても仕方ないのでやりません。いちいち、そこに頭を使ってられないくらい、事件が次々と起こります。


題名はやや強いイメージがあるかもしれませんが、このエッセイでも語ったことのある内容で(43話・大衆心理を参照)、人間はとかく集団になればなるほど「感情」に流されやすい生き物だという考えが自分の中にはあります(心理学の用語では”リスキーシフト”というそうです)。集団じゃなくても、私のような人間でなければ普通は感情で物事を判断したりするかもしれません。ただ、「共感疲労」という言葉があることを皆さんはご存知でしょうか。主に、介護職に携わる人がなることのあるものですが、苦しんでいる人を助けようとしたりする際に、感情移入してしまうことで助ける側が疲れてしまう、そんな現象のことを言うそうです。メディアで毎日のように辛い事件のニュースが流れたりしていたら、自然と自分も苦しい気持ちになると思います。被害者が川崎で起こった事件のように子供であったりすると、なおさらです。特に子持ちの方などは思いが違うはずです。しかし、「そういう事件が増えてきているのかもしれない」ということは頭に入れたほうがいいことかもしれませんが、それによって鬱々となってしまい割り切りが難しい、などの状態が自分に見られるなら、メディアからは離れたほうがいい、というのが私の意見です。


そして、日頃から隣人に親切を示すようにしてみたり、挨拶をしてみたり、小さなことをやってみる。もし、挨拶される側が孤独を感じている人だったら、その挨拶がちょっとした心のほぐれになるかもしれません。法を厳しく~とか、気持ちはわかりますが、相手は人ですからね。殺人することは悪い事ですし許せることではありませんが、「晒しあげてしまえ」「こいつは俺たちとは違う底辺だ」といった感情のちらつく「叩き」は、逆に孤独を抱えた「怪物」の負の感情を刺激しかねないものだと思っています。なんでみんな気が付かないかなあ。


人と人。僕は世の中はシンプルだと思います。

しかし、人と人の間に、インターネットという空間が存在するようになった今、複雑に考えざるを得ない人が増えているのも事実なのかもしれません。どう生きていくか、一人一人がしっかり考えないといけない局面なんでしょうね。


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