第29話 番外編 その2 水瀬司令の休日

1948年 2月 水瀬の自宅にて


「ふう。今日は久々の休日ですか。ならば子供達のあいてをといいたいけれど子供たちは皆家をでちゃったのでしたね」


私は水瀬暁子。大日本帝国陸軍いえ。今は航空軍大佐でしたね。家族はいるにはいたのですが夫に死に別れ、息子も独立しちゃいましたからね。

そんな感じでガランとした自宅の掃除と洗濯をしてお昼ご飯を食べた日曜の午後突然の来客がやってきたわね。


「お久しぶりです。司令。その、神尾、いや高槻さんから鮟鱇アンコウをもらったのですが私一人で食うのもアレなんで水瀬司令一緒にどうでしょうか。ダメなら料理屋に持って行こうとおもったのですが」

それを聞いた私は答える。

「いいわよ。せっかくの鮟鱇アンコウですからね。これだけ巨大だと二人で食いきれるかしらね~」

「多分行けるのではないでしょうか。ところで司令は鮟鱇は捌けるのかな」

「それが残念ながらダメなのよ。ユキはどうなの」

「一応、叔父夫婦に散々やられて一応は解体できますぜ。台所借りますね」

そういって彼女は流しに立って手馴れた手つきで釣り上げた鮟鱇を綺麗に解体して背骨と頭骨だけ残して残りの部位を綺麗に別けていたわね」

「随分と手馴れているわね」

「ええ。苫小牧の実家が魚屋で、幼い頃から魚の解体などをさんざんやらされましたよ。鮟鱇も例外なくですね。まあ、それでも戦力にはなっていたのかケチだったのか高等小学校すら満足に行かせてもらえませんでしたよ。まあ、テメエのところのバカ息子には優遇していたようでしたがね。まあ、それはともかく今日は寒いので味噌仕立てのアンコウ鍋にアン肝、フライなどアンコウを使った料理を出しましょう」

そういうと彼女は手馴れた手つきで仕込みをしようとするので私も助手として活躍していたわね。


そしてその夜こたつの上にはあんこう料理の数々が並んでいた。


で、彼女と食事をしている時に尋ねられた。なぜ。貴方はこのような職業についたのかとね。それで私は語ることにしたわどうして軍人になったのかをね・・・。



私は水瀬暁子女学校を卒業したばかりの18歳ね。家が御一新の頃から代々続く軍人の家系とはいえ、兄貴たちは貧乏士官になるのはごめんだとばかりに特待生として帝大に進んで外務省や内務省の役人になっちゃったわね。で、残ったのは娘の私一人だけだったわけ。で、父親たちは藁もすがる思いで、つい先日から開設された士官学校の女子入学枠に入れるべく関係者に良しなにと頼んでいたようね。で、私も成績が優秀だったから総勢60名の女性士官候補生として士官学校に入ったわ。


まあ、そこでの訓練は男子同様の過酷な内容だったわね。まあ、私は幼き頃から薙刀ナギナタだの武道をやっていたのでそれほど苦にはならなかったけれど他のお嬢様方にはきつかったみたいで次々と脱落していったわね。そして卒業する頃には私を含めて15名しか女性は残らなかったといえばいかに厳しかったということがわかるはず。そして私たちは女性たちは殆ど後方勤務や後方の部隊に配属されたわね。


私も例外なく後方の輜重部隊にはいぞくされてそこの指揮を任されることになったわね。まあ、後方の日陰部隊ということで部隊の隊員の質も悪く初めのうちは結構苦戦したけれど私自身が彼らとともに仕込みだの色々とやっているのを見て隊員たちも打ち解けてくれたみたいね。まあ、そんなかんじで問題なく部隊は運営されていたけれどその時支那大陸で厄介事が起こり私たちにも出動命令がくだったわね。そして私たちは上海を拠点に輜重の仕事をこなすことになったわね。まあ、私自身も飯缶担いで部隊に配給をしたりしていましたからね。指揮官たるもの先頭で動かないと部下はね・・・。まあ、それ以外にもトラックのハンドル握ったりサイドカー動かしたりと色々とこうどうもしていたわね。

そしてあるとき戦闘に巻き込まれたけれど部隊の損害は軽微な状況で敵戦車を撃破したという武勇伝もあったわね。で、その戦闘の後私達の部隊は再編成の為に後方にさがることになったわね。まあ、私もその時に銃弾をくらって後方へと下がることになったわね。


そして軍医の結果続行可能という診断をうけた私は上層部のすすめもあったので即応予備役という形で一度軍務から脱することになったわね。その時私は結婚をしたわね。まあ、両親が進める見合いで結婚した私たちだったけれど、子供が腹の中にいる時に旦那は事故で呆気なく死んじゃったわけよ。で、恩給で暮らしていける訳もなかったので洋裁の技量を持っていた私は衣類の修理、仕立て直しなどなどをこなして日々の日銭を稼ぐ日々だったわね。

で、昭和8年頃だったかな。子供も10歳になった頃、まあ、予備役の訓練を終えた私は召集令状がきたので再び軍務に就くことになったわね。なんでも士官の数がたりなくなるからという理由だったそうね。で、その際術科学校を受験することができると聞いた私は航空科を受験しそしてその試験に合格したわね。

そしてそこでパイロットの適正有りということでパイロットになるための訓練の日々だったわね。まあ、その頃は中尉だったわね。そしてパイロットになった時に大尉となり空中指揮官としてさらに半年訓練を行ったわね。

そこで神谷としりあったのもその頃だったわね~。で、そこで大陸上空で中華軍やアメリカ義勇軍相手に血で血を洗う戦いを経験したけれど私自身の撃墜スコアは単独で12機、協同で16機というスコアだったわね。まあ、脚付二枚バネの戦闘機部隊からその後機材輸送へと部隊の内容が変わってスコアは増えることはなくなったわね。それに私もその頃にはかなりの年増ですから空中勤務も厳しくなってきたからね。そして昭和14年に大戦が始まったわね。その頃には機材を福生~八丈島~硫黄島~サイパンへの機材輸送任務が主体だったわね。まあ、それ以外にも対潜哨戒飛行もおおかったかしらね。その任務も17年までで18年に私が司令として英国派遣航空隊の司令に内定したわね。そしてその年に少佐に昇進したわね。まあ、子供はその頃には帝大工学部の電気科にいたそうね。


そして18年にユキたちの司令官になったけれどイギリスのお偉いさんとの交渉だの調整だの司令官になっても忙しさは変わらない、いやむしろ仕事量が増えているわね。それで秘書だの従兵がいるということになるのかしらね。


まあ、それでも神谷や瑞雲のおかげで部隊は無事とは言えないけれど私たちはどうにか日本の地を再び踏むことができてよかったわね。

まあ、イギリスにいたときに戦時昇進で中佐になり内地に戻ってきた時には大佐になれたからね。

そして今では統合作戦本部付の参謀になれたのもユキたちのおかげかもね。今にして思えば部下に恵まれたのかもしれないわね~


それを聞いて居たユキはいう。

「そうですかその大佐。飲みましょうよ」

「そうね。明日は日曜ですし飲みましょう」


そんな感じで宴は進んだわね。そして夜も更けて酔いつぶれた彼女に布団と毛布を掛けてあげ私は一人縁側で月を見ながら一杯やっていた。

「あなた。貴方が逝ってからもう25年以上たったわね。子供は独立して今は水瀬重工でエンジニアとなるものになっているそうだし貴方の元に行くのはもうしばらく先になるけれど我慢してね」

そう言いつつ洋酒の入ったグラスを空けた。


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