第一章4 狗神―グール―

「もし、ここがあの世だったとして、私達はどうしてここに来れたのかしらね」

「そりゃあお前――」


 そこから先を口にするのは僅かばかり憚られる。ついさっき臨死体験を経たばかりなのだ、余り口にしたくない。

 そこからしばらく無言の時間が続いた。

 それから二度ほどあの巨大な化け物と遭遇しそうになったが隠れるなどしてやり過ごす事に成功した。上空の肉塊は地上に降りないのか、はたまた降りることができないのか遭遇する事は今のところない。


 三刻程経った頃か摩天楼の隙間からようやく宮城きゅうじょうが見えてきた。

 嘗て天を衝くようにそびえていた江戸城は明治の世に焼け落ち、今や見る影もないが今の城は今風の和洋折衷の趣きがあって今の日本の姿をそのまま現しているようで個人的には好きだ。が、今の俺達にその風情を味わう時間は無い。一刻も早く東京駅に向かわなければ。


 そのまま神田川の川辺を下っていく。

 神田川を流れるせせらぎの音は向こうの皇都と変わらず、時折川底で小石をコロコロと転がす音が混じったりして、目をつぶればあたたかな日差しの元、川べりに寝転がって微睡む光景が容易に思い浮かべる事ができる。


 釣りとかしたくなる。まぁ、ここで釣りはしたくないが。ここで釣りなんてしようものなら一体どんな化け物が引っかかるかわかったものじゃない。嫌だぞ、河童かっぱなんて釣り上げて尻子魂を引っこ抜かれるなんて。


 河童と言えばその好物はキュウリだが。なぜキュウリが好物なのか? 水棲生物なのだから魚などが好物になりそうだが何故か人の手で作られたキュウリを好む。その背景には河童という生物の正体にある。河童とは水神の零落れいらくした姿だと言われている。その水神だった頃の供物として捧げられていたのがキュウリなのだ。神から零落する程の時間があれば好みくらい変わりそうなものだが、それでもキュウリが好きなのはそれほど思い入れがあるという事か。


 ……こんなことを考える余裕が出来たらしい。思ったより自分の順応能力は高いようだ。


「……?」


 くだらない事を考えていると微かに刺激のある臭いを嗅ぎ取った。この臭いは――何かを焼いた臭い、か?


「どうしたの?」

「何かが焼けたような臭いがする」

「え? ……確かに、そんな臭いがするかも。どこからだろ?」

「こっちだ」


 丁字路に入ってすぐの所にある商店と骨董屋の間に路地裏に黒く焼け焦げた土があった。


「……まだ温かい」

「なんでこんなところに……?」

「……誰かがいる、とか?」

「人がいるって事?」

「可能性はある」


 が、こんな所にいる人間がまともな人間とは思えない。そもそも人であるかもあやしい所だ。探すのは余り得策とは言えなさそうだ。


「——悠雅」

「どうした?」

「探知に引っかかった」

「またか」


 四度目ともなれば流石に慣れてきた。


「いや、今度はかなり小さい」


 虫か何かか? 適当に想像しながら今度はどこへ隠れようかと辺りに視線を撒くと砂利を蹴る音が聞こえた。

 後ろのアンナのものではない。

 通りの角に視線を注ぐ。

 何か、いる。気配を感じる。しかし、これは、生き物……なのか?

 一人戦慄せんりつしていると、建物の影から、白い外套をたなびかせ、軍服の男が。


「人、間……?」


 いや、違う、しかし、だが、でも――

 人にしか見えないそれを脳みそが全否定し続けている。ああ、呪術師だの現人神がいる世の中なのだ。


 強引に己を納得させた己の目に映るのは、驢馬ろばの様な足と犬の頭を持った皇国陸軍の軍服を着た男という異常な光景。


「……狗神いぬがみ

「……屍食鬼グール


 互いに譫言うわごとの様に別々の言葉を呟く。だが、その言葉が一体何を指しているのかくらいは互いに理解できた。


「ニン、ゲン……」


 一体どんな声帯を使っているのかすすり泣いてるみたいに、静かにか細く呟いて、


「ンォオオオォォォォォォーーーーーーン!!」


 遠吠え。それも鼓膜が破れかねない程の。一般人だったら失聴してるぞこのクソ犬っころ!!

 逆手に持ったナイフの刃で切り付ける。が、


「チィッ、浅いか!?」


 普段ナイフを使い慣れていないせいか間合いが掴めない。しかし、悪態を吐いている余裕はない。間合いが掴めないなら、零距離で斬ってやる。


「——伏せなさい」


 短い声が背後から。

 同時に一つ呼吸を落とし、態勢を低く落とし、思い切り踏み込む!! 破裂音と共に鉛の弾丸が放たれ、俺の頭上を一直線で駆け抜け――狗神の右足を捉える‼

 更に狗神の苦痛に淀むうめき声を裂くように、迅雷の如き勢いで狗神に肉薄にくはく


「シィッ!!」


 首根っこを鷲掴み肩口から袈裟に切り払う。だが、狗神は強引に俺の束縛を振り切り、即座に後退することで致命傷を避けて見せた。狗神はそのまま、片足にも関わらず建物と建物の間を三角飛びで遥か高い空に舞って、再び遠吠えをする。


「拙いわ、凄い勢いで他の化け物たちがこっちに近づいてきてる」

「あ゛あ゛っ……!?」


 あの犬畜生、遠吠えで仲間を呼んでいやがったのか!? とっとと、なんとかしねぇと生き残るのも厳しくなるかもしれねぇ。


「——ぶった斬る」


 垂直に跳躍。今度こそ息の根を止めるべく、尚も遠吠えを続ける狗神に再度肉薄、首を刎ねる。

 二つに分かたれた狗神の体を見下ろしつつナイフを納刀する。切断の祈りを使わずして、この怪物を撃破できたのは僥倖ぎょうこうと言える。しかし、悠長に休んでる余裕はない。地鳴りにも聞こえる百鬼夜行の行軍が徐々に大きくなってきている。


「すぐに移動しよう」


 そうアンナに持ち掛けようとした瞬間、


「悠雅、後ろ!!」


 その悲鳴染みた叫びが反響した。


 振り返って反撃すべく再びナイフに手をかけるが、それよりも早く何かが俺の首筋に食らいついてきた。


「ん、ぐ、ああぁぁっ……!!」


 そうだこいつはだ。断頭は致命傷に成り得ない。

 首に食らいついた狗神の頭部を鷲掴み、強引に剥ぎ取って石畳に叩き付け、ナイフを突き立てる。


「くそ、しつこい……なぁっ‼」


 今度こそ息の根を止めた狗神の頭部からナイフを抜き取る。ぶちぶちと肉が引きちぎれてきて気持ちが悪い。


「大丈夫なの、首……?」

「問題ない。ちょっと肉を持ってかれただけだ。それより早く移動するぞ」


「あ、ちょっと待ちなさいよ。全然問題あるじゃない!」

 そうなのだろうか? この程度なら呪術師や現人神との模擬演習で負う怪我よりも遥かに軽傷なのだが。

 アンナ的には出血多量のまま隣で歩かれるのが気に入らないらしく建物の影に俺を連れ込み座らせると軍服の襟を捲って患部へと視線を落とす。


「ほら、言わんこっちゃない。傷口が壊死し始めてる。屍食鬼グールの唾液には毒が含まれているのよ?」

「ならその部分を切り落とせばいい」

「やめなさい!!」


 ナイフへと向かう俺の手を叩き、彼女は一喝する。


「そんな事をさせるためにナイフを貸した訳じゃないわ」

「解毒するのには時間が掛かる。犯された部分を切り落としたほうが早い」


 俺の解毒は新陳代謝と排泄による非常に原始的なものだ。だが、そんなものでちまちま解毒している時間は今の俺にはない。


「なんでアンタはそんなにどうしようもなく脳筋なのよ。‟蛮族ばんぞく”か何かなの?」

「失礼な」

「反論するならもっと文明的な対処方法を取ってもらえない? できないなら大人しく従いなさい」

「何をするつもりだ?」

「何って、治療に決まってるでしょ?」

「お前は医者か何かなのか?」

「本当にそう見える?」


 彼女は薄く笑んで見せた。そうして彼女が医者、ないし医療技術を持っていないことを察する。では何か? 呪術でも修めているのか? しかし彼女は現人神の筈。使

 一体どうやって? そんな疑問を胸に訝しんだ視線を送るも、彼女は素知らぬ風に祈るように手を組んで、のりとを唄い始めた。

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