3月24日 夜間 113

 それを聞いて落胆の声をあげた私へと、ミズキさんは笑いながらもきっちりとフォローしてくれた。

「お母さんのいうことは姫香ちゃんの幸福を思うからであって、仕方ないでしょう」

「でも、今さら頭のいい子かと思ってたのにっていうのはナイと思わない?」

「それは、ご両親のほうが一枚上手なんだよ」

 微苦笑まじりでこたえられた。たしかにそうかもしれないのだが、しかし、納得いかない。

「親御さんの希望よりもずっといい子に育っちゃったんだろうけどね」

 多少の哀れみをもって結論されて笑いそうになった。そして、それではいけないとあわてて真顔をつくって返答した。

「いい子っていうのは親に心配をかけない娘っていう意味なはずだよね。そうなるべくして自分でも努力してきたのに、なんでか、ダメなんだよね。まあでも、結婚してほしかったみたいだから、これで安心するでしょ」

 あえてそういう言い方をしたわけではなかったものの、言わずにはいられなかった。ミズキさんも、それを察してくれていると思っていた。彼はしばらく無言で私の顔を見つめていて、こちらが不安になって口をひらこうとしたとたん、前髪を指ですいて小さく笑った。

「ミズキさん、なに?」

「ううん、なんでもない」

「それ、なんでもないって顔じゃないってば」

「そうだね」

 そうだねと言いながら、彼はそれ以上の説明はしなさそうに見えた。思わず頬をふくらましそうになると、いきなり彼はかけなおした付け下げの褄下をもって裾をめくる。八掛に、作家名と落款が捺してある。

「洒落てるね、作家物だ」

 私は自慢げな気分でうなずいた。すると、その左手が前裾を親指で挟むようにしてゆっくりとすべり落ちた。衣擦れの音が耳を撫ぜて、思わず頬に血が上る。

「帯が鳴る音も、いいよね」

 『細雪』じゃないんだから、そういうのはやらしいってば。

 あわててその手をつかむと、ぎゃくにつかみ返された。見あげると、まだやや濡れたままの前髪のしたの瞳は暗い。すこし、興奮してるのだな。そう気づいたときには抱き寄せられていた。

「ミズキさん、ちょっと待って……」

 うん、と頷いたものの、両腕は身体に回ったままだ。

「するなら、お風呂入りたいの」

「何度もいうけど、それはもったいない」

「あのね、でも、そのほうが……気持ちも身体も楽なの」

 こう言えばこのひとのことだから譲歩すると思った。ところが、彼は一瞬考え込むような顔をして的確に言葉をかえしてきた。

「君、冷え性だからね。爬虫類みたいに汗かかないし。つらいのは、濡れてるってだけで挿入する男が悪いし、ちゃんと伝えようとしないで諦める君も悪い」

 何を言われているのか脊髄あたりで判じて、うぎゃあと叫びそうになった。

「熱が内側に篭って辛いっていう自覚があるからまだましだけど、ちゃんと血を巡らせて汗かくセックスしたほうがいいよ」

「でも……」

 実をいうと、昨夜は咳ばかりしていた。あれで本当にミズキさんはよかったのだろうか? 不満だから今日したいのだったら、またあんなふうに変になったらどうしよう。

「でも、なに?」

 首を傾けてこられると、言葉が上手に出てこない。

「もう姫香ちゃんてほんと世話の焼ける。今日は疲れてるからセックスしたくないって言えばいいじゃない」

 言えばいいじゃないって、そんな……。それに、したくないって言ってるんじゃなくって、いや、したくないのかもしれないけど、それはだって。ああもう、言わないと。

「でもミズキさんはしたいんじゃないの?」

 怒ったような口調になってしまってうなだれると、

「僕は時間と場所があればいつでもしたいよ」

 平然と言い切られて顔をあげ、目を丸くしていると、

「僕は姫香ちゃんのお召しならいつでもOKだけど、この件に関しては君に絶対的な主導権がある」

「ふたりで、することじゃないの?」

「男女でするならリードを取るのは女性だよ。君に気がないときに働きかけてその気になってもらうのは骨が折れる仕事だと思うよ?」

 このミズキさんでもそう思うの? そうなのか、そうだったのか。私、今までずっと間違ってた? 男のひとにその気にさせてもらうものだと信じてた。

 唖然として見つめ返すと、やわらかく微笑まれた。

「お風呂、ゆっくり入ってくれば? 自分以外の人間が家にいると落ち着かないんでしょ」

 そこまで見抜かれるつもりはなかった。

「僕は叩かれても罵られても母につきまとう依頼心の強い子供だったけど、君はほんとに独りでいる時間が必要なんだよね。すぐ寄りかかりたがる僕といるのはきっと大変だと思う」

 どうこたえたらいいかわからなくて、ただ、自分が思っていることを告げようとした。 

「私、ミズキさんといるとすごく気持ちがいいよ」

 言い終える前に、ぎゅうっと抱きしめられていた。

「ほらまた、そうやって気をまわす。そんなに気を遣わなくていいんだよ」

 彼がちょっと困ったような顔をして続けた。

「ねえ姫香ちゃん、今日歩いた道、初めてじゃなかったんだね。君、はじめて歩く道だと通りの名前や目印になりそうな建物の位置、ちゃんと確認するでしょ?」

「う、ん」

 そんな、おのぼりさん丸出してキョロキョロして歩いてるんだろうか。それってけっこう恥ずかしくない? 

「一緒に歩いてるときもそうだし車の助手席にいても電車にのっても、君、いつもきちんと外見てるよね。はじめのうちは僕がいろいろ連れまわしちゃったから僕のことが信用ならないのかと思って実は不安だったんだけど、ランドマークになるようなもの見つけるとニコって安心した顔するんだよね」

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