3月18日 16
そんなわけで、目が覚めたら午後の四時。母から留守電がはいったのも気がつかなかったくらい、眠りこけていた。とりあえず母の携帯電話にメールをうち、トイレにいって、冷蔵庫から花粉症に効くという作りおきの健康茶を飲んで椅子にすわりファッション雑誌を数頁めくっただけでまた眠くなり、ペットボトルにいれかえたお茶をもって這うようにしてベッドに戻る。
脊椎動物にあるまじき、背骨がなくなるようなだるさには覚えがあった。でも、いまは何も考えたくない。
その後、小刻みに目をさましながら、とにかく十一時には目を覚ましていないとミズキさんが心配すると自分に言い聞かせつづけた。ひとと約束しているというのは、なんとありがたいことだろう。
そうして気に入りのR&B男性アーティストの甘ったるい声に揺り起こされた私は、強制的に意識をきりかえようとして、電話の表示をみた。ミズキさんで間違いない。ベッドで半身をおこし、背筋をのばして乱れた頭をふって喉をととのえる。
「こんばんは、昨日は送ってくれてどうもありがとう。おかげでよく眠れた」
「あ」
あ、の声がミズキさんではなかった。自分の血の気がひくのがわかった。さああっと耳の横で音がするみたいだ。
「浅倉くん?」
「センパイ……」
そもそも言葉を伝えることを目的とした電話で黙りあうこと自体、ひどくおかしな行為なのだ。そしてこの、奇妙な沈黙が何を意味するのか考えると、ことは重大だった。
「あ……その、こんばんは」
情けない声で、挨拶をされた。
粗忽者めが。
「こんばんは、じゃなくて、浅倉くん、そこにミズキさんいるんでしょ?」
腹立ちまぎれに尖った声で問いただすと、や、今、ラウンジにいるんで、ときた。
騙し討ちとは粋なことをしてくれるじゃないか!
携帯電話をぎゅうと握り、この煮え繰り返った腹のうちをどうしてくれようと考える。
「センパイ?」
「あのね、浅倉くんも浅倉くんよ」
「ハイ?」
「だけどね、それより何よりミズキさんってば、どうして浅倉くんに話しちゃうわけ?」
「ハナシって、何ですか」
浅倉くんの声が硬く、低くなっていた。
「センパイ、何か、あったんですか」
あれ、やだ、もしかして……。
沈黙。
「あ、浅倉くん?」
無言。
うわ、やだ。すごい大失態。
気がつかれた。絶対に、気がつかれた。どうして彼ってば、変なトコ勘がいいんだろう。野生動物並みなんだもん。ど、どうしよう。
「……センパイ、大丈夫ですか」
ようやく搾り出したっていうほど苦しげな声が耳に痛かった。なんで、浅倉くんがそんな声を出さないといけないの。そう感じた私は、ほとんど反射的に電話を切っていた。切って、これはあまりにヒドイのではないかと反省したけれど、どうしようもなく息があがっていて、眩暈がして倒れそうだ。
気を落ち着かせようと深呼吸し、左手につかんだ携帯電話が、なにか禍々しいもののような気がして、思わず床に放り投げた。
そのとたん、着信音。
うわ。
こういうホラー、なかったっけ?
そろそろと、顔を近づける。ああ、ミズキさんって表示されてるけど、これ、どう考えても浅倉くんだよね。
こわい。
いや、待て。怖がる必要はないんじゃないの?
何がイヤなんだろう。いろいろ問いただされるのがイヤなのはわかる。でも、自分に非があってふられたわけじゃないと思うのなら、軽くいなせばいいわけだ。いや、そもそも恋愛に非があるとか何とかあるだろうか。たしかに私にも悪いところはたくさんあった。でも、彼だって……。
待て、そういう話じゃなくて!
過去のことを今ここで振り返ってもしょうがない。
いまは、この「電話」のことだ。
ともかく、ほっておいて欲しい。それもある。というか、ソレだ。
かまわないでほしい。ほんとに。とにかく、絵を描く以外の余計なことを一切したくない。それに、もう、こういう「レンアイ沙汰」はイヤ。疲れた。抜け出したい。
もう、ほんとうに何も考えたくないの――……
ぼうっとして思考を手放すと、耳慣れたメロディだけが耳をうつ。この曲、やっぱ好きだなあ。
あ、切れた。床にしゃがんで、それを見つめた。留守電になっている様子はない。もう、かかってこない、かな……。
ふう、と一息ついて油断してたら、メールの着信音。
さすがに、そのくらい見るべきだろうと意を決して開けた。浅倉くんのアドレスからだ。
ど、どうしよう。
見たくない。見たくないってひどいね。でも、何を書かれていても、煩わしいと思ってしまいそうな気がする。私ってヒドイひとだ。ほんとに、いっつも自分のことしか考えてない。気を遣ってるのはどう考えても彼のほうなのに、でも、そうされることもうざったいんだから、いったいどうしたらいいんだろう。
でも、まあ、「ニンゲン」として、これを見ないってわけにはいかないよね。返事するしないはともかくとして。
……って、すごいドキドキして開いたら、なにこれ、件名もなくて、
【ゆっくり、休んでください。おやすみなさい。】
だけですか!
まったく。もう。まったく……粗忽者め。
仕方がなくて、返事を打つ。すこし、白ヤギさんのような気分だった。読まずに食べるなよ、と言いたい。いや、それは私か。かかってきた電話をいきなり切るなよ、と自分でも思う。反省。浅倉くんに、甘えすぎている。それがわかるだけに、ツライ。
そう。
わかるだけに、困るのだ。これくらいは許してくれるだろうと、私はすでに考えてしまっている。
ああもう、仕方がない。
【ありがとう。おやすみなさい。】
迷ったけれど、けっきょく、そう書いて送った。
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