3月17日 12

「どこから」

 やわらかな声だった。でも、それはとても強い問いかけだった。

「小学校の旧校舎の立替途中現場。足場を組んだとこから、落っこちたの」

「それってどう考えても立ち入り禁止じゃないの?」

「でも、子供って入っちゃダメなところに行きたがるものでしょ? それにその頃、高いところから飛び降りるのが勇気の証明みたいに思われてて」

「で、失敗したの?」

「まさか」

 心外だとばかりに顎をそらした。

 思えば、ちょっとした根性試しだった。だいたい、男の子にきゃあきゃあ言わせられるのが性にあわない。第二次性徴前だもの、体力的にかなわないっていうレベルじゃない。長距離走ならほんとうに負けなかったし、木に登れたし、毛虫だってこわくないし、蛇だって触らせられたけど平気だった。

「そうだよね。ふつう、だったら足を折るなり腰を打つなりするものだよね」

 そう言って、ひとりでうなずいた。たぶん、彼にはなんとなくそのときの状況が見えているのではないかと思えた。

「そういう場所だったから遠くに先生の姿が見えただけで、そら逃げろ隠れろってことで押されて、変な風に落っこちたのよ。一瞬、死ぬかと思ったけど、生きてたね」

 乾いた声で笑うと、目の前のひとは自分が落ちたかのような白い顔をしていた。

「ミズキさん?」

 彼は、はあっと長い吐息をついて額に手をあてて、幾度も頭をふった。

「それ、死ぬよ?」

「うん。私も死ぬかと思った。でも、生きてたから」

「それは危険すぎるよ……」

「うん。まあ、でも」

「でもじゃなくて、女の子なんだから、そういう危ないことしちゃダメだよ」

「だから、そういうこと言うから、飛び降りてやろうじゃないのって思うわけだよ」

「危うく死にそうな事故に巻き込まれて」

 客観的に聞くとひどく恐ろしい言葉を投げつけられて、自分でもだいぶ間が抜けていると悟った。

「それはちょっと、運が悪くて」

「違う」

 強く言い切られた。びっくりして目を丸くしてると、責めるような声音で続けられた。

「運がよかったから死なないで、それだけの怪我ですんでるんだって思わないの?」

「……お、もわなかった」

「姫香ちゃん、それ、絶対に間違ってるから」

 ミズキさんの言いたいことがわからなかったわけじゃない。でも、認めて納得してしまうのもなにか気持ちが悪かったし、今さらながらこわかった。

「鉄筋コンクリートの二階ってかなりあるよ? その高さからそんな風に落ちたら、ふつう、それだけじゃすまない」

「う……ん」

 くらっとした。え、やだ。滑り台やジャングルジムの天辺とか、ブロック塀や物置の天井とかそんなんじゃない。それよりずっと地面が遠かった。

 暗い赤土のうえに散らばった小石、その表面のざらっとした凹凸や、青いビニールシートについた趣味の悪い白みがかったペパーミントグリーンのペンキの擦れ、かぎ裂きのできた繊維のほつれが見えたりする。落ちる瞬間って、どうしてそんなものがちゃんと見えてしまうんだろう。ああ、そうか。あの汚らしいビニールシートにからまって落ちたのか。ぺたりと、頬に砂粒塗れのシートが張りつく気味の悪さ、ロープの攣れる音が足首から膝のあたりを乱暴に、間断なく、引っかき続けたのを感じた。

「警察いった?」

 首をふると、ミズキさんがまたもや大きなため息をついた。

「その調子じゃ病院も行ってないね」

「だって、子供の遊びでそんな大げさなことしたらかわいそうだよ」

 脳震盪というのはあとにも先にもあれ一度きりだ。目が覚めて見あげると、隠れろと言って私を影に追いやった子はひどく怯えていた。唇の色が失せ、ほんとうに顔が青くて、だらんと垂れた両腕の力のなさが人形じみていた。他の子は一緒にかがんでいたのに、その子だけ離れて、先生の斜め後ろに立っていたのだ。

 今ならすぐに病院送りだろうけれど、ビニールシートですべって転んで頭を打ったと言い訳をした。外傷は絆創膏をはる程度で、保健室に連れて行かれたけど、なんともないと言い張った。

 しばらくは朝起きると地球が三十回転するような眩暈がしたし、歩くのはもちろん息をするだけで痛かった。胸の痛みはともかく、眩暈と吐き気はひどくて、頭をきゅうに動かすだけで立っていられないくらいふらふらして、死んだらどうしようとこわかった。けれど、今さら病院に行くというのはひどく間が抜けていると自分でも思った。かえって、それで何か障害が見つかるほうが恐ろしかったのだと思う。とにかく自分で耐えられなくなったら親が気づいてどうにかするだろうというくらいに大きくかまえて、死ぬときは死ぬさ、と格好をつけていた。

 幸いというべきか、赤ん坊のころから丈夫とは言い難い子供だったせいで、気持ちが悪い、だるい、熱っぽいといって横になっていても不思議がられなかった。

 数年前、故あってCTをとってもらったことがあった。ラッキーなことに、頭に異常はなかった。いま思うと、そのときのひどい眩暈と過呼吸という不定愁訴の遠因はきっと、これだ。メニエール、甲状腺異常、子宮内膜症と病院をたらい回しのうえ、どれこれもグレーというか黒というべきか悩むべき状態で。それはともかく、あのとき頭を打ったせいだとすれば納得。

「姫香ちゃん」

 こわい声で名前をよばれたのが気に食わなくて、なにか自分でも理不尽なことを言い返しそうになって唇をかんだ。

「君はその子を庇っていい気持ちになってたかもしれないけど、相手はどうかな」

 かえって追いつめたのだと言われても、今の私には、いや当時の私にもどうしようもない。問題を明らかにして公に謝罪する機会を奪ったために彼がそれをひとりで抱えないといけなかったのだと言われると、返す言葉が思いつかなくて困る。けれど、怪我させました→学校や親にばれました→謝罪しました、という一連の、子供にとって楽しくない状況に陥るよりはましなような気がしたのだ。

 もちろん、ドジ踏みましたと宣言したくない一面もあった。相手のことを慮っただけじゃなくて、よい子ちゃんの自分の体面を守りたくて我慢したところもある。

「その男の子が人間を突き落としたら気持ちがいいって感じていたら?」

「そんなことないよっ」

 予想もしないことを言われて、鳥肌が立った。ミズキさんは私の剣幕におされたわけでもなく、いつもの顔でさらりとこたえた。

「もちろん、それはなかっただろうね」

 じゃあ、なんでそういう気味の悪いことを言うの。

「賭けてもいいけど、彼らはそこからは飛び降りたことがない。君はさいしょから、絶対に無理ってところに連れて行かれてたんだと思うよ」

 ミズキさんがなにを言いたいのか考える。つまり、彼らがパニックになったのは、ひょいと飛び降りられないところにいたからだ。いつもなら私の手をとって一緒に飛び降りて走ればよかった。やべえ、見つかった、逃げろ。それが最高のスリルでもあっただろう。

 でも、それができないところにいたから、びっくりして隠そうとしたわけ、か。

「……なるほど。私、すごく頭わるいね」

 ぽつりと口にすると、ミズキさんが呆れていた。

「気が強いのも考えものだよ」

「でも、泣いて引き下がるのはどうしてもイヤだったの」

 聞き終えるかどうかというところでミズキさんがついと立ち上がり、無言のまま台所に入っていった。取り残されて、毛布にくるまったまふらふら立ってあとを追い戸をあける。

「こっち寒いから、座ってて。いま、ワインをあっためるから」

 ここはどこのヨーロッパですかと言いそうになって、彼が帰国子女でお手伝いさん持ちの家庭で育ったことを思い出した。

「蜂蜜いれると美味しいよ。嫌いじゃないでしょ?」

 そこはこくりと全面肯定。

 ソファに座って待っているのが、子供のころ風邪をひいて母親に冷たいものを食べさせてもらうときの気恥ずかしさと似ていた。居心地の悪さをまったく感じなくて、正直、そのことがなんとも空恐ろしい気持ちがした。

 手渡されたマグからはレモンの香りがつんと立ちのぼり、鼻の奥を刺激した。

「美味しいね」

 お世辞ではなく、甘い葡萄酒はひりついた喉と食道を潤してやわらかかった。しばらく無言で両手に持ってあたたまっていると、ミズキさんがこちらを見ないで口にした。

「その子、君を好きだったんじゃない?」

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