魔法戦術理論
ラザレスが梯子を上り、頭上の偽装布を取り地上へと出ると、そこはイーニアス王国の城壁より百メートルほど離れた国外の草原であった。
すぐさま抜け道から地上へと上るのに利用した梯子を引き上げ、出口に偽装布を再び被せる。これも鉄箱にあらかじめしまっておいた代物であった。
(‥‥‥城壁内でまだ何かがあった気配は無い‥‥‥。クリフがうまくやってくれたのだろうか‥‥‥)
一抹の期待を感じるとともに、祖国ベルンフリート帝国の方角へと足早に歩き始めるラザレス。
イーニアス王国からベルンフリート帝国までは馬車にて約五日。徒歩ならば当然、その倍以上の時間が掛かる。ラザレスが少し早足を心掛けたところで、それは全体で掛かる時間から鑑みれば微々たる短縮にしかならないであろう。
だが彼には脱走したという身の上から、出来るだけ城壁から遠ざかりたいという意識が働いたのだ。
しかし、突如その背中に低く、落ち着いていながらも威圧感を伴った声が掛けられた。
「止まれ」
(なっ!?)
ラザレスにとって、それは聞き違えようのない声であった。この二年間、彼の部下として働いていたのだから‥‥‥。
「アーロン‥‥‥フレンザー!?」
反射的に名前を呟き振り返ると、そこには暗夜へ紛れる黒衣の外套を身に纏い、背中にツーハンデッドソードを背負った、イーニアス王国兵士団長であるアーロン・フレンザーが立っていた。
「な、なぜここに‥‥‥!?」
アーロンがここにいるという衝撃から、震える声で質問を浴びせかけるラザレス。そのような様子のラザレスとは対照的にアーロンは落ち着き払った様子で答えた。
「お前たちが俺の周りを嗅ぎまわってることなど当の昔に気付いている。それと、お前たちが隣国の間者だということにもだ」
「なっ!? 監視にも間者としての偽装にも、我々は細心の注意を払っていた! それなのに、なぜ……!?」
ラザレスは少しずつ後ずさりをし、距離をとりながらも更なる質問を浴びせかける。
「なんてことはない、ただお前たちの呼吸法が他の兵士たちとは違ったというだけの話だ。お前たちは、魔法の発動に際してのマナを取り込む呼吸法と普段の呼吸を使い分けているつもりだろうが、それでも魔法使い独特の癖は現れる。何も考えずに、ただ生命活動としての呼吸を行う他の人間と、お前たちの呼吸は俺から見れば多少ではあるが質が異なる」
(癖? 癖だと‥‥‥?)
確かにラザレスは聞いたことがあった。長い年月、魔法技術に触れていた魔法使いは、意識せずともある程度のマナを体内へと取り込むことが出来ると。
ラザレスとクリフは祖国においていくつかの功績があり、若き天才として名の知れた魔法使いであった。イーニアス王国への
(し、しかしそれでも、私は抜け道を出る際に梯子を引き上げた筈だ! 私たちの正体に気付いていて、尾行されていたとしても、地上に上がるのは物理的に不可能なはず!)
しかし、それを言葉として発する前にアーロンは低声にて遮る。
「お前には入団以降、世話になったからな‥‥‥。俺の邪魔にならん限りは見逃してやろうと思っていた。だが……それも終わりだ」
「‥‥‥なら、私をどうするつもりだ?」
ラザレスは両手に装備している小手を外しつつ聞いた。答えは分かっていた。
「殺す‥‥‥。死んでもらう」
鋭い眼光と共に紡がれたその言葉には、彼の決意と、それに伴う殺意が滲んでいた。
ラザレスはその言葉を聞くと同時に後方へと飛び退き、アーロンとの距離を取りつつ戦闘態勢に入った。
それを見てアーロンも、背中に背負うツーハンデッドソードを納剣している鞘を手に取り、その鞘を投げ捨てるように抜剣する。
ラザレスとアーロンの距離は一二メートル前後といったところである。
ラザレスが、会話の最中や、戦闘態勢に入る直前に、とにかく距離をとろうとしたことには理由があった。
ベルンフリート帝国の魔法兵士達が行う戦闘演習は、イーニアス王国の騎士、兵士を仮想敵としている。
理由は至って単純で、他にベルンフリート帝国と肩を並べる軍隊を有する国家が存在しないからである。
そして確立された、イーニアス兵を相手どる際の基本戦術は、これも至って単純。兎にも角にも距離を離すことであった。
魔法を攻撃に利用する場合、基本的には現出させた、それは炎であったり氷塊であったりするのだが、それらを弾丸のように己の体表より射出するのが一般的である。
魔法の扱いに熟練したものであれば、突風を巻き起こす、大地を隆起させるなどの攻撃法も択に入るのであろうが、どちらにせよ距離を離すのは必須。武術に精通した近接戦の巧者揃いであるイーニアス兵に接近を許すこと、それ即ち死であるからである。
そして、それらの戦術理論からラザレスの考案したイーニアス兵に対する必勝の戦術は‥‥‥
ラザレスが、右手の五指の先端をアーロンへと向ける。
そして、親指大ほどの、鋭利な先端を持つ氷塊を空想し、己の五指へと意識を集中させる。その集中を解かぬまま、新たに空想するは弓より放たれ、空を裂く敏速なる矢。
刹那、アーロンへと向けたラザレスの五指より寸分先に、水分が集まり、瞬時に氷結。彼の空想に忠実な氷塊が五つ発現し、それらが親指より、順次アーロンへと矢の如き速さで射出された。
一指より射出され、次弾が射出される頃には、瞬前に射出した一指に新たな氷塊が生み出されており、それがまた数瞬後には射出される。その連続して射出される氷弾は、さながら止むことのない豪雨の如き勢いである。その鋭利な先端から、氷弾をまともに浴びたならば、致命傷とはならなくともタダでは済まないという事が容易に想像できる。
ラザレスの考案したイーニアス兵に対する必勝の戦術。それは、魔法による絶え間ない弾幕を張ることであった。
「ッ!」
しかし、恐らくは五指を向けられた時点で身構えていたのであろう対手、アーロンは異常な瞬発によって迫る氷弾を避け、その勢いのまま止まらずにラザレスより見て左方向へと走り始めた。
それを追うように、身体ごと五指をアーロンへ向け続けるラザレス。
氷弾を避けるために、止まることなく走り続けるアーロン。
状況は氷弾を射出し続けるラザレスを中心として、アーロンが彼の周りを回り続ける形となる。
しかし状況は膠着していた。アーロンは彼の周りを周回しつつも、徐々に距離を詰めているのだが、対するラザレスも氷弾にて牽制をすると同時に、距離を離すべく後ずさる。
(くっ! このままでは‥‥‥!!)
しかし、一方的に攻撃を加える立場であるにも関わらず、ラザレスは心中にて焦りを感じていた。
戦闘を始めてから、走り続け、それもツーバンデットソードを握りながらの疾走を続けるアーロンだったが、走る彼の表情に疲労の色は見えない。それどころか、その双眸は常にラザレスの五指を捉えて離さず、いつ隙を見せるかを虎視眈々と実に平静に狙っているのである。
(あの体力‥‥‥! 化け物か!?)
彼の戦術理論は、確かに剣士に対し無敵であると言っても過言ではない。並みの戦士ならば‥‥‥いや、名だたる猛者であろうとも、指を向けられるだけで嵐のように襲いかかる氷弾の雨を前にしては、躱すことも受けることも出来ずにただ倒れ臥すのみであろう。仮に、避ける事ができようともそれは長く持つものではない。
そのような思考によってこの戦術理論を考案したラザレスは、ここに至ってこの戦術の穴に気づかされることとなった。
それは戦闘が長時間に渡った場合、魔法の発動に際する集中力が切れることであった。
この『氷弾の雨』は四つのプロセスによって成り立つ魔法である。
一つ、呼吸によるマナの吸収。
二つ、鋭利な先端を持つ、己の親指程の大きさを持つ氷塊の空想。
三つ、自身の五指への意識の集中。
そして四つ目は、現出した氷塊の高速射出をイメージさせることがらの空想である。ラザレスは専ら、魔法射出の基本である弓より放たれた矢を空想する。
そして、当然この魔法を絶え間なく発動させるためには絶えることなくこのプロセスの空想を繰り返さねばならない。
そのため、長期の戦闘となると尋常ならざる精神力を必要とされるのである。
だが、本来ならばそれを穴とするのはあまりに手厳しいと言わざるを得ない。無尽蔵の体力と、その体力を以って、迫り来る氷弾をいつまでも避け続ける者を相手取ることなど普通は無いのだから。
しかし、今のラザレスに相手が悪かったなどという言い訳を付けている
もし集中が切れ、氷弾による弾幕が途絶えれば、次の瞬間にラザレスの首は宙を舞うことになるだろう。
(一か八か‥‥‥!!)
次手を迫られたラザレスは、だらりと下げていた左腕を上げ、その五指の先をアーロンの移動先へと向けた。
もしこの左手からも氷弾を射出し、弾幕を張ることが出来たのならば、追う右手と待ち受ける左手により、弾幕でアーロンを挟み込む形に持ち込むことが出来るだろう。それが出来るのならば‥‥‥。
そう、両手による『氷弾の雨』の発動は天才と呼ばれたラザレスをして、未知なる領域であった。
ラザレスは右手の五指から意識を離さず、しかし同時に、左手の五指へも意識を向けた。
そして『氷弾の雨』を発動させる四つのプロセスを空想し‥‥‥。
「うっ‥‥‥!!」
すぐさま、左手に向ける意識を振り切り、再び右手の五指へと意識を集中させた。右手より放つ弾幕が、止まりかけたからである。
やはり、複雑な思考を同時に行うなど人間には不可能であったのだ。しかし‥‥‥。
(ならば‥‥‥!)
『
魔法の発動には、多大なる集中が必要であり、人間は集中してしまうと、他の事へは手が回らなくなってしまう。理論上、よほどに単純な魔法を除けば、魔法の同時発動は不可能なのである。
しかし、仮に脳の思考力が二つあればどうだろうか? もしくは、思考を分割することが出来ればどうだ?
魔法研究者たちは、それを『
ラザレスも
身体への負担を考慮し、考え付いたのみで試さずにいたが、この状況においては止むを得ない。なにしろ試さずにいればこのまま殺されるのだから。
ラザレスは右手への集中を僅かに解いた。氷弾を現出させ、射出していた五本の指の内、二本が氷弾の現出を止める。
だが、それでも依然として弾幕と呼ぶに足る密度の氷弾がアーロンへ襲い掛かっている。
そして、僅かに解いた意識を以って、ラザレスは己の意識の分割する様を空想する‥‥‥が、変化は起こらなかった。
ならばと、次にラザレスは己の脳が増大し、更に分割する様を空想する。
昔、祖国にて人の解剖へ立ち会った際に見た、人間の脳を鮮明に思い描き、それを己の脳として考え、その脳が膨れ上がり、更には二つに分割される様を、右手より切り離した僅かな意識にて空想した。その刹那。
「あっがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「‥‥‥ッ!?」
ラザレスは己の頭部が裂けるが如き、強烈な激痛を感じて、絶叫しながらその場へとうずくまった。
アーロンよりの攻撃は無かった。その余りに突飛な狂行を前にして、剣を構えながらラザレスの様子を怪訝な表情にて伺っている。
(ッ! 失敗‥‥‥したのか?)
猛烈な頭痛の中で、ラザレスは確かめるように胸中にて自問した。
(いや、成功だ)
その自問に答えるは。当然自答であった。しかし、それは意識せず自答。
(い、意識が‥‥‥!!)
(そうだ、分割されたのだ。私の考え出した魔法が成ったのだ!)
並列される二つの思考『
ラザレスが視線を上げると、静かな足取りでこちらへと歩みを進めるアーロンの足先が目に入った。
幸い、戦闘を行うにはまだ十分な距離が開いている。
頭部の痛みは未だラザレスを苛んでいるが、先程の裂けるような激痛と比べれば、微々たるものとなっていた。仕掛けるならば今をおいて他にない。
立ち上がらぬままに、迫るアーロンへと右手の五指を向けるラザレス。それに反応し、五指の先より横に逸れつつ、ラザレスへと疾駆し始めるアーロンだったが‥‥‥。
「くッ!」
アーロンが斬撃の有効範囲に入るより早く、ラザレスの五指より再び氷弾による弾幕が張られた。
それを避けるために、これも再び横方向へ走るアーロン。
状況は振り出しへと戻ったかと思われたが、ラザレスは右手より氷弾を射出しつつも、アーロンの移動先へ左手の五指を向けた。先程、試行して失敗に終わった、両手による『氷弾の雨』の型である。
(今の私ならば、やれるはずだ! 思考の分割に成功した、今の私ならば!!)
ラザレスは右手への集中を一切解かぬまま、左手の五指へと意識を伸ばし、『氷弾の雨』の発動に際するプロセスを空想した。
右手より射出される氷弾はその勢いを止めぬままに、ラザレスの左手の五指、その寸分先へと水分が集まり、氷結、指の向けた先へと射出を開始した。
両手による『氷弾の雨』は成った。右手よりの氷弾の弾幕は、走るアーロンを追い、左手よりの氷弾の弾幕は走るアーロンの移動先に待ち構える。
弾幕に挟まれる形となったアーロンに残された道はただ一つ。
立ちはだかる弾幕の下を
しかし、そんなことはラザレスにとっても予測済みである。アーロンが少しでも、そぶりを見せたら、直ちに手を下方向へと落とす。割った思考をそれぞれ右手と左手に集中させながらも、ラザレスはそう考えた。
アーロンが待ち受ける弾幕へと接触するのに、あと数瞬も掛からない。にもかかわらず、アーロンが身体を下方向へと逃す動きは未だ見られない。
(弾幕を突っ切るつもりか‥‥‥?)
この地点でこの速力、なおかつ身体を逃す動きも見られないとあっては、弾幕を突っ切ると考えるほかない。ラザレスがそう考えるのも無理はない話である。だが‥‥‥。
走るアーロンが待ち受ける氷弾の雨の射線へと入る直前、それまでの速力を殺さずに身体をラザレスへと向け、これまでと変わらぬ速力にて一直線にラザレスへと迫ってきた。
(遅い‥‥‥!!)
速度だけを見れば、ラザレスへと迫るアーロンの速さは人間離れしたものである。しかし、指を向けるのみでアーロンに氷弾の弾幕を浴びせることが出来るラザレスにしてみれば余りに遅い。横方向での移動には追い付けずとも、縦方向の移動とあっては射撃手から見れば止まっているのと何ら変わりは無いのだから。
だが‥‥‥。
(な‥‥‥にぃ‥‥‥!?)
両手の五指を己の正面へと、迫るアーロンへと向けたラザレスだったが、そこにアーロンの姿は無い。
瞬きすることなくアーロンを見据えていたにも関わらず、その動きが余りに逸脱した、常識を超えたものであったため、ラザレスは即座に反応することが出来なかった。
ラザレスが顔を上げると、そこには己を飛び越してゆくアーロンの足が見え、すぐに行き去っていった。
それは飛翔に等しいほどの跳躍であった。梯子無くしてアーロンが抜け道より地上へ抜け出たのも、この跳躍によるものだったのであろう。
辛うじて上半身を捻り、後方を確認しようとするも、ラザレスの目に映ったのは、己へと向けて投擲されたツーハンデッドソードのみであった。
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