6/20 湖上の誕生日
「……コガさん」
居間でベースを弾いていた
「んお? どうした。腹減ったか?」
元々小食の気がある晶だったが、体調が悪いとそれにも拍車がかかり、夕食はほとんど食べていないのだった。
「顔色はだいぶ良くなったな。――ほい、熱測ってみろ」
手渡された体温計を脇に挟み、ソファに腰掛ける。
「食欲あんなら、雑炊温めてくるけど」
「……いまは良いです」
それから計測完了音が鳴るまでの間、晶は一言も喋らなかった。
これはやはり何かあるな。
湖上はそう思った。
晶が無口なのはいまに始まったことではないし、こうやって特に用も無いのに彼の元にやって来る事だって稀にはある。
それでも。
それでも今日は何かある。そう思うのは彼が『父親』だからだ。
「37.0℃か……。まぁ、そこそこだな」
平熱が低めの晶にしてみればまだまだ油断は出来ない状況ではあるものの、38℃付近をうろついていた日中に比べればマシな温度だ。彼女の方でもだいぶ楽になったようで、足取りもしっかりしていた。
体温計をケースにしまい、それをテーブルに置いた後で、湖上は言った。
「――で?」
「……で?」
晶は目を丸くして首を傾げている。湖上からすれば「それは俺のリアクションだ!」と言いたいところではあったが。
「俺に何か言いたいことか聞きたいことでもあんじゃねぇのかなって思ってよ」
こういう時にじっと目を見ると晶はすぐに逸らしてしまうし、構えてしまう。だから彼は適当にベースの弦を弾きながら、何気ない風を装って言った。
「コガさんはソロでCD出したりとかはしないんですか?」
熱のせいでいつもより赤みの増したその唇から零れて来たのはそんな質問だった。聞きたかったのは本当にこれなのだろうかと思いながら、彼はそれに答える。
「いまんトコはその予定はねぇかなぁ」
「そうなんですか」
「ベースのソロCDなんてよっぽど知名度がなきゃ売れねぇからな。まぁベースに限ったことじゃねぇが。いまじゃギターのだって一頃みてぇにゃあ売れねぇんだ。
「……もったいないですね」
計測中に運んできたスポーツドリンクをグラスに注ぐと、彼女は軽く頭を下げてからそれを飲んだ。
「私は聞きたいのに」
「そう言ってくれるだけでもありがてぇな。俺のベースくらいいつだって聞かせてやるよ」
そんなことを言いながら、またこれで『理由』が増えてくれたと思う。本当に小せぇ野郎だ。ちまちまとポイントを稼ぐような真似しやがって。
「それじゃあ、聞かせてくれますか」
「ん?」
「コガさんのベース、聞きたいです」
「おぉ、よっしゃ任せろ。何が良い?」
そう問い掛けてから、つい「さっきの『Fake Lover』やってやろうか?」と口が滑りそうになった。隠している手前、何となく後ろめたい気持ちがあるし、耳の良い晶のことだ、弾けばきっとバレる。
馬鹿だな。日中のやり取りからして、それをリクエストされるに決まってるというのに。
「即興で」
しかし、彼女から飛び出したのはそんな言葉だった。
「出来ますか?」
YESともNOとも答えない湖上に、晶はまずいことをお願いしてしまったかと肩を竦めた。
「出来ますかってお前……。愚問過ぎるだろ、俺はプロだぜ?」
ニヤリと笑って余裕を見せると、晶はホッとした表情になった。
「ただ、夜だからあんまり激しいのはやらねぇぞ。
それでも良いなら、と前置きしてから、もしいつかライブで披露する機会があれば、と温めておいたソロを爪弾く。晶は目を閉じてそれに耳を傾けていた。
湖上はそれを見て――、
まさかこれも耳コピするんじゃねぇだろうな。
そう思った。
それから10分ほど弾き、手を止めた。目を瞑ったままの晶は眠っているようにも見え、湖上は彼女の肩を軽く叩く。
「おい、起きてるか?」
ゆっくりと開かれた晶の瞳が、しっかりと彼をとらえた。その強い視線にほんの少し怯む。
「……コガさん、やっぱりCD出すべきですよ」
囁くような声で、でも、強くきっぱりと。
「まぁ、いつかな」
「一緒にやりましょう」
「あ? 一緒に?」
「私も絶対にプロになります。だから、一緒にやりましょう。CDも出しましょう。形にしなきゃもったいないです」
絶対に、と念を押す。その眼差しも言葉も、今日は何だか強かった。
嬉しいこと言ってくれやがる。
一緒に仕事がしてぇなんて、親父冥利に尽きるってなもんだ。そうしみじみと感じた。でもその裏で、所詮子どもの描く夢だとも思う。期待してしまえば彼女の興味が他に移った時の失望がデカい。一度決めたら迷わず突き進むという晶の性格は熟知していたが、それでもだからこそ、その『もしも』があったらきっと立ち直れないだろう。
だからなるべく期待はしないように、と言い聞かせた。
「あの、だから――」
続きがあるのかと、湖上は驚いた。普段の晶はこんなにぽんぽんと話を振ってこないのだ。やはり今日は何かあるらしい。
奇しくも、今日、この日。
俺の誕生日に。
晶が話をする時は相槌が難しい。
タイミングを間違えたり、下手に盛り上げようとしたりすると、詰まったり、勝手に話を終わらせてしまうのだ。だから、彼女がプレッシャーを感じない程度の視線を向けた状態で黙っているのが案外ベストだ、というのが湖上の分析である。
案の定、晶は「だから」の続きを躊躇っているようだった。ここで下手に催促をすればきっとこの話はしばらく――いや最悪、一生語られることはないだろう。
だから、待った。固く閉じたまま、むぐむぐと動いている唇の辺りに視線を固定し、ひたすらに待った。
程なくしてその唇はゆっくりと開かれた。
「だから、それまでは一緒にいてくれませんか。その、お父さんの、代わり、として……」
その言葉に、湖上は思わず顔を上げた。血色の良いぷくりとした唇に固定されていた視線が彼女の瞳を捕えた時、まるでそれによって撃ち抜かれでもしたかのようなタイミングで、表面張力を保っていた涙がほろりと落ちた。
「……何で泣くんだ。何も泣くこたぁねぇじゃねぇか。一世一代の告白でも……あるまいし……よぉ……」
いつものようにおどけて言ったつもりだった。しかし、それは完全に失敗に終わっている。何故なら彼の目からも大粒の涙がボロボロと落ちていたからだ。
「クソッ、畜生ッ! 何で俺が……っ!」
慌ててごしごしと擦ってみるも、既に手遅れである。余程驚いたとみえて、晶の方の涙はぴたりと止まっている。
「どうしてコガさんは泣いてるんですか?」
「るっせぇ! 泣いて……たけど! 過去形だ! 進行形じゃねぇからな!」
真っ赤な顔で勢いよくそう否定する。その姿もかなり滑稽である。それに圧倒されて目を丸くしていた晶も耐えかねて、ぷ、と吹き出した。
「なっ、何だよ! 笑うな! 畜生!」
「そんなに慌ててるコガさん見るの久し振りです」
ちなみにこの数ヶ月後、あっさりとギターに転向した晶の尋常じゃない上達ぶりに、彼はまたしてもこの醜態をさらすことになる。
晶に勧めたはずのスポーツドリンクで喉を潤し、幾分か落ち着いて来た湖上は大人として――保護者としての威厳を取り戻そうとしてわざとらしくゴホン、と咳払いをしてみせた。それに合わせて猫背気味の背筋をぴんと伸ばして――止めた。こんなの俺らしくもねぇ。
「あー……、何だ。取り乱して悪かったな。恰好わりぃトコ見せちまった」
照れくさそうにそう言うと、晶は「そんなことないです」とぽつりと言った。
「でも、一体どうしたんですか?」
驚きすぎて熱も冷めたのか、彼女の頬からはだいぶ赤みが引いている。
「ん――……まぁ、何つーか、その……あれだな、嬉しかったっつーかな」
「嬉しかったんですか? 何かあったんですか?」
核爆弾級の『嬉しいこと』を投下した当の本人は、宙に無数のクエスチョンマークを浮かべて涼しい顔である。
この鈍感め! いや、それとも演技……? いやいや、この晶に限ってそんな高度な演技が出来るわけがない。
「……そりゃあ『娘』がよぉ、『親父』と一緒に仕事がしてぇだの、一緒にいてくれだのなんて言ってくれたら、泣くほど嬉しいに決まってんだろ」
ほんの少し調子に乗って言ってみる。
いつか『別れの日』が来るのだとしても、いまこの瞬間ならこんなことを言っても許されると思ったのだ。
「でもなぁ、アキ。それでも俺は『コガさん』であって『お父さん』にゃなれねぇんだ。逆立ちしたって何したってな。でも俺は、お前らが、顔も見たくねぇ出てけっつーまでは、何があっても一緒にいる」
「そんなこと……、私も郁も言うわけないですよ」
「……わからんぞ? こんな血の繋がらねぇおっさんなんてよ」
「血がどうこうとか、私にはわかりません。コガさんがそう思ってくれるなら、私達は家族です」
「家族か……」
再び込み上げて来そうになった涙は、無理やりスポーツドリンクと共に流し込んだ。
ぐぇっふ、とわざとデカいげっぷをしてから、「ハッピーバースデー、俺」と呟いた。
そこで初めて今日が彼の誕生日だと知った晶は驚きのあまりに慌てて立ち上がり、そのまま貧血を起こして倒れた。
「……家族なんだから、誕生日くらい教えておいてちょうだいね。こっちにもプレゼント用意する都合ってもんがあるのよ。いつ聞いてもはぐらかすんだから」
同じく初めて湖上の誕生日を知らされた郁は、説教でもするかのようなトーンで晶の枕元に正座をする湖上を見下ろした。
「すみませんでした……」
ともあれ、今日は良い日だった。
たぶん。恐らくは。
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