Extra chapter Ⅴ crazy for you (2011)

♪1 彼女の鍵

 おかしい。


 章灯しょうとは固く閉ざされたそのドアの前に立ち、右手を顎の辺りに添えた状態でそう思った。


 おかしい。


 一呼吸ついたあとで尚もそう思い、章灯は首を傾げる。彼の心臓はドクドクといつもよりも速く脈打ち、背中には冷たいものが流れた。


 確かにいままでもこういうことは何度かあった。


 ――そう、あきらが出来た曲をなかなか自分に渡さないということは。


 しかしそれは大体の場合、とりあえず彼が納得出来るだけの理由があったのだ。


 とはいえ、落ち込んでいるので明るい曲は辛いかと思いました、であるとか、あまりに気の進まない仕事が舞い込んで来たためにうっかり忘れてました等、章灯でなければ怒鳴り散らしているであろう理由が大半だったが。

 それでもここまで待たされることはなかった。

 自分の声に惚れぬいてくれている晶のことだから、いくらなんでも締切まで忘れることは無いだろう、だったらいっそギリギリまで黙っていてみよう、そう思って口をつぐむこと早ひと月である。

 


 珍しく晶よりも先に起きた章灯が軽い気持ちで彼女を起こしに行ったのが1ヶ月前。仕事の時間まではかなり余裕があったし、いますぐに何か食べなくては死ぬ、といったような差し迫った状況でもなかった。ただ単に、可愛い彼女の無防備な寝顔を拝んでやろう、そう思っただけだった。もちろん彼はそれを許される間柄である。


「おはよ――……」


 一応ノックもし、声もかけた。これで起きてしまうのなら、残念だがそれも仕方ない。しかし幸い、晶は可愛らしい寝息を立ててぐっすりと眠っていた。そういえば昨夜は随分遅くまで起きていたようだった。急ぎの仕事でもあるのか、夕食を済ませたあとすぐに自室へと引っ込んでしまったのである。


 晶の仕事とはすなわち作曲の依頼だ。

 床に散らばった譜面を踏まないよう、ゆっくりと慎重に歩き、一歩、また一歩と彼女に近づいていった。


「しかし今回はまた……」


 思わずそう呟いてしまうほどの譜面が床やデスクの上に散らばっていた。こんなにバラバラにしてしまって大丈夫なのかと心配になる。いままでも大丈夫だったのでそれは恐らく杞憂なのだろうが整理整頓好きの章灯としてはかなり落ち着かない。1枚拾い上げてみるが、書きかけの譜面というのはやはりちんぷんかんぷんである。


 そして気になるのがもう一点。

 自分達以外に作った曲ならば必ず譜面の右上に依頼者と締切が書いてあるのに、それが無い。


 ということは――、


「俺らの曲?」


 アルバムの予定なんて聞いてないぞ。

 タイアップが決まったとも。

 もちろんストックという線もある。あるのだが、こんなに大量に……? だったら晶の方から「アルバム出しましょう!」と言ってくるはずなのだが。


 まぁ書き忘れということもあるだろうし、本当にただのストックなのかもしれない。


 章灯はそう思い、当初の目的である晶の寝顔を堪能することにした。


 ややしばらく幸せそうなその寝顔を見たあとで、そろそろ起こすかと晶の肩を優しく揺すると、彼女は「うぅ」と可愛らしい声をあげつつ薄目を開ける。


「章灯さん……?」


 覚醒しきっていない寝惚けた声で彼の名を呼ぶ。その無防備な様子がまた可愛いのだが、それをストレートに伝えたところで彼女にはきっと理解出来ないだろう。


「おはよ」


 章灯がそう声をかけると、晶は急に回線が繋がったようで、ガバッと身体を起こし、辺りを見回した。


「みっ、見ましたっ?」


 寝起きだというのに真っ赤な顔で慌てふためく晶に章灯は虚を衝かれた。


「見たって……何を? えっ、あっ、いや、寝顔は見たけど」


 よだれを垂らしていたわけでもなく、芸術的すぎる寝癖がついているわけでもない。至って普通の――可愛い寝顔だった。それでも見てはいけなかったのだろうか。


「ごめん」


 軽く頭を下げると、晶は顔の前で両手を振った。


「いっ、いえ、章灯さん、顔上げてくださ――ああぁぁっ?!」


 彼女にしてはかなりの大声でそう叫び、ベッドから慌てて下りると、章灯が持っていた譜面を引ったくるようにして奪い取った。もちろん、こんなことは初めてである。


「ちっ、違いますから!」

「えっ?」

「そういうんじゃないですから!」

「何が?」

「――もっ、もう良いじゃないですか! あのっ、きっ、着替えますから、その、出ていってください!」

「ちょっ、アキっ?」


 ぐいぐいと胸の辺りを押され、章灯は足元に注意しながら彼女の部屋を出た。ばたん、とドアが閉まったあとでがちゃりと鍵のかかる音が聞こえる。晶と暮らし初めて数年、彼女がまだ男の振りをしていた時でさえ鍵がかけられることはなかった。それなのにいまは固く閉ざされてしまっている。


 いままで着替えの時だって鍵なんかかけなかったじゃねぇか。


 ――それから今日に至るまで、晶の部屋は本人の在不在に関わらず鍵がかけられるようになってしまったのである。

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