Extra chapter Ⅳ my girl (2011)
♪1 空洞を埋めるもの
「疲れた疲れたーっと」
そんなことを呟きながら共用ホールのオートロックを解除する。集合ポストに入っている様々なチラシは、ざっと目を通してからそれ専用のゴミ箱へと突っ込んだ。個人宛のものは何一つ無い、不特定多数へ向けた数打ちゃ当たるのセールスチラシである。
独身なのに家なんて買うかよ。
そうぽつりと呟く。
エレベーターに乗り、5階を押す。右手に持っているのは国産ビールとつまみが入ったコンビニ袋。左肩には商売道具であるベースが入ったハードケースをかけている。
大きな観葉植物の鉢がいくつも並んだ廊下をとぼとぼと歩くと、どこの部屋からか美味そうな夕餉の香りが漂ってきて、そういうものを作って待っていてくれる者がいないことに寂しさを感じ、やはりどこかで食べてくれば良かったかなと後悔した。腹が膨れていればきっとここまでは辛くない。隙間があるから、空洞があるから、感傷ってやつが入り込んでくるのだ。
いっそいまここで食ってやろうか。
そう思って手に下げたコンビニ袋を顔の前まで持ち上げ苦笑する。自分の奇行には慣れっこになっている大家もさすがに呆れるだろうか。
来月の20日で42を迎えるサポート専門のベーシストである。
独身。血の繋がらない娘が2人。
この年になると『独身』という言葉が殊更身に染みる。
孤独死なんてものが社会問題になっているからなおさらだ。まだまだそんなことを考える年でも無いというのに、行き遅れるのではと心配していた方の娘も何とか結婚相手が見つかったということで肩の荷が下りきってしまうと、後は自分の人生しか残っていない。
孤独死ったって、別にあいつらに見捨てられたわけでもねぇし。
ただ1人で暮らしているというだけで、自分には可愛い娘が2人もおり、(うち1人は全く可愛くないが)可愛い婿もいる。すぐ近くには親友とも戦友とも呼べる仲間もいるし、行きつけの店だってたくさんあるのだ。
そうそう、孤独死ってのはさ、そういうやつが1人もいねぇ爺さんがなるもんだ。俺には関係ねぇよ。
そう言い聞かせながらもぽっかりと空いている心の隙間には先ほどの美味そうな香りが入り込んで充満してしまっている。そしてそれは自分の部屋に近付けば近付くほど強くなり、きっと隣のオバちゃんだと思って湖上は「参った」と頭を掻いた。
ポケットからカギを取り出し、鍵穴に差し込む。
「――お?」
どうやら自分はうっかり施錠をするのを忘れて出てしまっていたらしい。朝バタバタしてたからな、と思いながら、仮に空き巣に入られたとして、盗られてやばいものがあっただろうかと部屋の中のものを思い出す。
仕事道具であるベース類は貴重なもの、高価なものは事務所に置いてあるので、家にあるのは練習用の割と安価なやつが2台だ。金庫なんてものは無いし、貴金属の類もさほど高価なものはない。
でも――、
写真とかDVDは困る。
ただ写真については郁と晶も同じものを持っているし、DVDにしたって事務所に保管されているものをダビングしたものだ。もしものことがあっても複製することは可能だ。
いや、待て待て。
本当の本当に世界でただ1つしか無いものがあるじゃねぇか。
それはあの2人が自分に向けてプレゼントしてくれた絵や折り紙等の作品、それから作文にテストの答案、そして成績表。意外に几帳面なところのある湖上はきっちりとファイリングして保管してあるのだった。
あれは絶対に盗られたらまずい! ……って言っても、そんなのを盗ってく泥棒なんていねぇか。
わずか数秒で様々な考えを巡らせていた湖上は、いい加減にしろと催促する自身の腹の音で我に返り、誰ともなしに「わかってるよ」と呟いてドアを開けた。
が――。
「あ、お帰りなさぁ~いっ」
開けた瞬間にふわりと漂ってきたのはさっきまで湖上を悩ませていた夕餉の香りである。何だよ発生源はここかよ。などとのん気に思っている場合ではないというのに、目の前の光景があまりにも非日常すぎて、処理が追いつかない。
晶からプレゼントされて愛用している黄色いエプロンを身に着け、お玉を片手に駆け寄って来たのは、薄茶色の長い髪を後ろで1つに結わったセーラー服の少女である。
誰だ、お前。
そんな単純な言葉すら出て来ないほどの衝撃。
空き巣? これはまた随分新しいタイプの……。いや、それとも新手の詐欺? えーっと、勝手に上がって夕飯を作り、食べたら怖ーいお兄さんがやって来て……、とか?
「ねぇ、どうしちゃったの? 早く食べようよ。あたし、お腹空いちゃった。待ちくたびれたんだから」
もしかして幽霊?
もういっそそれくらいの方が納得出来るというところまで考えていた湖上の手を、少女はぐいと引っ張る。
何だよ、クソ。実体あるんじゃねぇか。てことは幽霊じゃねぇじゃん。
ここまで来ると幽霊の方が良かったと思いながら、湖上は彼女に引っ張られるがまま、部屋の奥へと入っていった。
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