3/3  雛祭り・前編

 お雛様を早く出すと、早く嫁に行き、

 片付けるのが遅れると、行き遅れる。


 母は毎年のようにそう言いながら、姉の雛人形を飾っていた。初孫である姉のためにと祖父母が張り切って買ってくれた八段飾りは、出すのもしまうのも正直大変だったが、普段は大して迷信深くもない母がこればかりはと気合いを入れていたのは、やはり娘のためだからだろう。


 2月の終わりに押し入れから出して3月の始まりと共に奧の和室に飾り、4日の夜に片付ける。


 これが山海やまみ家の桃の節句である。ちなみに献立についてもそれらしきものが用意されるのだが、姉――紀華のりかが大きくなってからは彼女のリクエストが並ぶようになった。


 幼い頃はただ単に「そういうものだから」と聞かされていた雛人形のルールも、きちんと理由を教えられてからは積極的に母を手伝うようになり――となれば良かったのだが、生来面倒臭がりの姉は、その重い腰をなかなか上げようとしない。


「だぁーいじょうぶ! 私、かわいいから! 結婚なんてらっくしょー!」


 そんなことを言って、父の店の方に行ってしまう。

 幼い頃の紀華は女の子らしいものよりも、父の経営する釣具店に並んでいるものの方に興味があるようだった。父はそれが嬉しく、彼女が高校進学と共に『女子』に目覚めるまで、本気で後を継がせようと思っていたようである。


 だから、積極的に母を手伝っていたのは弟の章灯しょうとだった。元々几帳面で整理整頓が好きな質だったというのもあるが、彼は密かに姉が行き遅れてしまうのではと心配していたのである。


 というのも、まだ2人が一緒の部屋にいた頃、学校の宿題で『将来の夢』という作文を書いていた紀華が、彼にこっそりと教えてくれたのだ。


「これには『お花屋さん』って書いたけど、本当は私、お嫁さんになりたいのよね」と。


「じゃあ、どうしてお嫁さんって書かないの?」


 章灯は納得がいかないといった風に首を傾げながら聞いた。


「だってね、友達にそう言ったら、なりたいものを書かなきゃダメって言われたんだもん」

「努力?」

「そう。お嫁さんなんて努力しなくても絶対になれるんだって。お父さんとお母さんだって結婚出来たんだから」

「お父さんとお母さんは努力してないの?」

「うーん、してないんじゃない? それに、結婚の努力って何すればいいの?」

「わかんない、僕」

「私も。だから、これでいいの。お花屋さんならきっと、毎日お花の世話するだけだから、簡単よ!」


 世の既婚者と生花店を一気に敵に回しそうな発言をし、紀華はニヒヒと笑った。あんなに釣具に興味津々だったのに、なぜ釣具店と書かなかったのかと章灯は疑問に思ったが、何となく聞けずじまいである。

 ただ、『簡単(実際はそんなことはないのだが)』だから花屋を選んだということは、仕入れ業者とのやり取りやら商品のメンテナンスやらをしている父を見て、案外大変そうだと気付いたのかもしれない。もう少し想像力を働かせれば生花店も同様だと気付けたのだろうが、そこは所詮子どもである。


 さて、雛人形である。

 幼い頃から極度の怖がりであった章灯にとって、奧の和室に飾ってある雛人形というのは、正直なところ、出来るだけ関わりたくない代物だった。


 普段誰も立ち入らないところであるために、夜だからといって灯りが煌々としているわけでもなく、雛人形とセットになっている雪洞ぼんぼりの淡い光だけがそこにあった。それが不気味さをより際立てる。だから彼は、母――華織がそろそろ片付けようかしらと腰を上げるまで、まだかまだかとそわそわするのであった。


 しかし、章灯が小学校6年生の時、ちょっとした事件が起こった。いや、事件と言うほどのことではないのだが。

 

 ――母と姉がそろって熱を出したのである。


 ただの風邪だという診断結果にひとまず安心したものの、問題が一つある。先述の雛人形の片付けである。


 いや、もちろん問題はこれだけではではないのだが、それ以外は父と協力すればどうにか対処出来る類のものだったのだ。料理だってお粥やうどん程度なら、父――景章けいしょうにも作れるし、掃除洗濯については既に章灯の得意分野である。


 2人の看病をした後で自分を奮い立たせ、和室に向かう章灯に景章は、「別に今日じゃなくても良いんでねぇのか」と言った。母さんの風邪が治ってからで良いだろう、とも。


 たった1人で雛人形と対峙しなければならないというシチュエーションを考えれば、それは実に魅力的な言葉だった。そうでなくても慣れない看病で身体は疲れている。学校の宿題だって残っている。


 けれども――、


「病み上がりにこんなことさせられないよ。それに、毎年やってるから、何だか癖になっちゃってさ」


 章灯は曲げなかった。


 年に一度の行事ではあるが、もうすっかりそれが染み付いてしまっており、やらないと落ち着かないというのもあったし、やはり冒頭の母の言葉が頭から離れなかったのである。


 日中、火を焚いていない和室はひんやりを通り越して、かなり冷える。章灯は電気を点け、灯油ストーブのスイッチを入れた。現代的な明るさと暖かさが味方すれば、恐怖は少し和らぎ、作業はぐっとしやすくなる。


 本当はここに母の声があれば百人力なのだが。そう思いながら、部屋が暖まるまで、しばし雛人形から視線を外しつつストーブで暖をとることにした。


 しばらくしてだいぶ部屋が暖まってきた頃、ひょいと顔を出した父は町内の集まりがあると言い、なるべく早く帰るからと何度も章灯に頭を下げて出ていった。家の中は不気味なほどしんと静まり返っている。普段騒がしい女性陣が口を閉じるだけでこんなにも寂しくなるのかと、父を見送った彼はぶるりと身震いをした。それは廊下の寒さのせいだけではなかったが、無理矢理そう思い込む。


 章灯は怖さを紛らわせるため、流行りの歌を口ずさみながら梱包作業に取り掛かった。細々とした小物はバラバラにならないようチャック付きの小袋に入れて各々の箱に収める。カサカサという紙が擦れる音と、まだ声変わりの完了していない澄んだ声が和室に響く。人形と小物をしまい終え、台の解体作業に取り掛かろうかと立ち上がったその時、後ろの障子がすぅっと開いた。突然吹き込んできた冷えた空気に身体を震わせ、彼はゆっくりと振り返る。


「――何だ。姉ちゃんか」


 そこにいたのは紀華だった。パジャマの上に綿入れを羽織り、それでもまだ寒いのか背中を丸めている。


「寝てなきゃダメだろ」


 そう言うものの、この空間に自分以外の人間がいるというのは、正直有り難かった。


「何よ。ちょっとびびってたくせに」

「びっ……、びびってなんかねぇし!」

「はい嘘ー。お姉ちゃんにはわかるんだからね」


 やや鼻声ではあったが、その明るい声にホッとする。薬が効いているのか、数時間前とは別人のようだ。


「良いって、そういうのは。病人は大人しくベッドで寝てなよ」

「だって退屈なんだもん。構ってよ」

「病人は退屈で良いんだよ。それにいま忙しいから構えない」

「良いじゃん、ちょっとくらい遅くなってもさ。お母さん、明日頑張るって言ってたし」

「ここは寒いし、結構力仕事なんだから、病み上がりの人にはさせられないよ」

「章ちゃんやっさし~い!」


 わざとらしくヘッヘッヘと笑った後で紀華はゲホゲホと咳き込んだ。


「ほらぁ……。だから大人しく寝てなって。これ終わったらそっち行くから」

「わかったわかった。――そうだ、章ちゃん」


 来た時と同じように背中を丸めて廊下へ出た紀華は、思い出したようにくるりと振り返った。


「あたし考えたんだけどね」


 妙に真面目なトーンに、思わず背筋が伸びる。


「な、何?」


 風邪を移さないように、という配慮なのか、両手を口元に当てた状態でゆっくりと顔を近付けた。その真剣な表情につい腰が引けそうになる。


「お雛様をいつまでも出しておくとお嫁に行きそびれるって言うじゃない?」

「そ……うだね」


 そう、元はといえばそれなのだ。

 だから毎年毎年チリチリと刺さる嫌な視線に耐えながらこれらを片付けているのである。


「確かに迷信っていうか、そういうものなんだと思うんだけど」

「……うん」

「それってさ、そういうのを出しっぱなしにしてるようなだらしない女は、嫁の貰い手が無いぞっていうことなんじゃない?」

「――は?」

「だから、桃の節句が終わったのに、いつまでも片付けないっていうのはさ、何ていうか、どの行事にもいえそうじゃない? 例えばほらこの部屋にね、お雛様から五月人形からクリスマスツリーやらってぜーんぶごちゃごちゃ置いてあるような家の娘さんって、かなりだらしなく見えるっていうか……」

「……確かに。でも、それ言っちゃうとさ」

「そう、そうなのよ」

「俺が片付けてる時点で……」

「そうなのよ。そういうわけだから、今年はあたしがちゃんと片付けるからさ、あとは置いといて良いよ」

「良いよって言ったって、姉ちゃんこれのしまい方なんて知らないだろ。ちゃんと順番に入れないと、蓋閉まんなくなっちゃうぞ?」

「え? あぁ、あーそっかぁ。んじゃ、治ったらやるから、章ちゃん教えて」

「でも……」


 ここまで手をつけて投げ出すというのはどうにも気持ちが悪い。章灯は未練がましく雛人形の段ボールを見た。


「良いから良いから。お姉ちゃんの結婚のために章ちゃんが頑張りすぎなくても良いのよ」

「べっ、別にそんなんじゃねぇし!」

「いや~、お姉ちゃん思いの弟を持って、あたし幸せだわぁ~」

「ちょっと、姉ちゃん!」

「安心して章ちゃん。あたしちゃんとお嫁さんになるから!」

「何だよその自信。そう思うなら少しは部屋の掃除とか母さんの手伝いとかしろよ!」

「良いの良いの。そういうのに細かくない旦那さん見っけるから~」


 熱が上がってきたのか、真っ赤な顔であははと笑う。章灯は呆れたように大きなため息をつき、紀華の手を引いた。


「ほら、桃缶でも出してやるから、部屋戻ろ」


 やや強引に引っ張ると、紀華は文句も言わずにのそのそと歩き始めた。


「はいはぁ~い」


 いつの間にか自分より大きくなったその背中に向かって、紀華はぽつりと呟いた。


「ありがと」


 その暖かな声は確かに章灯の背中に届き、彼は「うん」とだけ言った。  

 

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