♪6 銀の滴

「ねぇ皆、今年の夏休み、フェスに行かない?」


 咲がそう切り出したのは、勇人はやとが胸を張って親友と呼べる間柄である吉岡颯太と笹木大和やまとが遊びに来ていた時だった。幼稚園からの付き合いである颯太は母親同士も仲が良い。また今年のクラス替えで仲良くなった大和の母も、咲の人懐こい性格により、既に何度かお茶のお誘いを受けるほどの仲になっていた。もちろん、子ども達に話す前に彼女らの許可は得ている。


 フェスという言葉自体は決して馴染みの薄いものではない。夏休みになれば至るところで開催されているからだ。問題はそう、中身である。


「何のフェス?」


 敬語なんて堅苦しいのは抜きね、と言い含められている大和は、期待に目を輝かせながら問い掛けた。


「俺、あれ行きたい! あれ、あれ! えーっと、何だっけ!」


 颯太の方はというと、既に興奮状態である。


「颯太君が行きたいやつだと良いんだけど……。じゃじゃーん! これよ!」


 ほんの少しもったいつけてから、後ろ手に持っていたフライヤーを差し出す。勇人の表情が少し曇ったのを咲は見逃さなかった。


「すっげぇ! サマアニじゃん!」

「これだよ、これ! 俺が行きたかったやつ!」


 大和と颯太は目の前に差し出された『日のテレ サマーアニソンフェス』のフライヤーを、自分の方に引っ張りながら凝視している。その熱の中に勇人は加わらない。


「ハハハ、みぎわちゃん、リカのコスプレしてらぁ」

「汀ちゃんは可愛いけどさ、山海やまみアナなんて青アメーバじゃんか。ウケる」


 引っ張り合いながら盛り上がる少年達とは対照的に、勇人の表情は暗い。それでも嬉しそうな親友達に水を差してはならないと、時折愛想笑いを浮かべている。そんな息子の姿が痛々しい。


 健次君、本当にこれで大丈夫なの?


 そんな様子を見て、咲はそう思った。


「なぁ、勇人! 『ピリカ繚乱』のOPやるぜ!」

「――ぅえっ? マジで?」


 そんな咲の不安を吹き飛ばしてくれたのは颯太である。

 彼は勇人の大好きなアニメ『ピリカ繚乱』のOP曲『銀のしずく』を歌うアイドル日向カメラの名前を目ざとく見つけ、指を差した。『銀の滴』は彼女の3枚目のシングル曲で、初めてのアニメタイアップ曲である。その曲を歌うとは書かれていないもののアニソンのフェスなのだから、当然この曲を歌うだろう。それまでの雰囲気とは一転してがらりと明るくなった勇人を見て咲は胸を撫で下ろしたが、楽しみにするのが自分の父親の演奏ではないということに複雑な思いであった。


「とりあえず、第一関門突破だな」


 長田おさだからのメールを見た章灯しょうとは、その画面をあきらに見せ、ホッとしたように笑った。それを見て晶の方も安堵の表情を浮かべている。


「しかし、まさかアキがこんな提案するとはな」


 わざとヒヒヒと意地悪く笑い、パタンと携帯を閉じる。


「毎年毎年夏フェスは嫌だってブーたれてる癖によぉ」

「別に……ブーたれてなんかいません」


 ズバリ指摘され真っ赤になった顔を背ける。そして気持ちを落ち着けるためにと、ポロンポロンとギターを爪弾いた。


「まぁ、確かにしんどいけどな。熱いし。幸運なことに毎年毎年快晴なんだもんなぁ」

「天気が良いに越したことはありませんが……」


 そう言ってから、小さくため息をつく。


「……熱いんですよね」


 熱いと汗をかく。

 脱水を防ぐために水分を摂る。

 飲んだ分はもちろん汗として流れるが――、

 当然、からも出る。


 晶がこの手のイベントを嫌がるのは単に体力が無くて辛いというだけではない。

 ワンマンライブではない以上、当然自分達以外の人間も関係者用のトイレを使用する。

 多機能トイレも一応あるのだが、数が少ないために待たされることもある。もしもの場合は最終手段として男子トイレを使用せざるを得ないのでは、という話が持ち上がったこともあるのだが、いまのところは何とか一度もその『もしも』に遭遇したことはない。ただ、その際には念のためメンバーを先に行かせ、他に使用者がいないことを確認してから入ることになっているのだが、いちいち声をかけるのはやはり恥ずかしいし、使用中に誰かが入ってくる場合ももちろんあるので、本当の最終手段である。


 なので晶の発した「熱いんですよね」という短い言葉の中にはそういった煩わしさも含まれている。


「それに今回はカメラちゃんも出るしなぁ」


 追い打ちをかけるようなその言葉に晶の頭はがくりと垂れた。

 あの『日向カメラ争奪、CD売り上げ対決』から2年。忘れたくても忘れられない忌まわしき屈辱。しかし、やはり心のどこかでは負けて良かったのだという思いはある。それでもまた「晶様、晶様」とまとわりつかれるのかと思うと気が重かった。


「まぁそんな顔するなって。ココだけの話、カメラちゃん、いまは『晶様』じゃねぇんだって」

「……本当ですか」

「おうよ、ちゃーんと収まるところに収まってんだ。安心しろ」

「章灯さんがそう言うなら」


 カメラがライブをする度に出入りする花屋の青年とデキているらしいというのは、業界内ではもうだいぶ知れ渡っていた。しかしかといって騒ぎ立てるほどのアイドルというわけでもなく、まして相手は一般人である。所属事務所のpassionとしても、不倫や略奪などでなければあとは当人に任せるというスタンスらしい。


 晶が再び安堵の表情を浮かべたところで章灯は自身の作業――アルバム曲の作詞活動に戻った。



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