♪11 『開けて』って
「お疲れ」
それは
疲れた。とにかく疲れた。
自分の家であるにも拘らず男の振りをせざるを得なかった晶の方も、隠しきれないほどの疲労を態度ににじませている。
「章灯さんもお疲れ様でした」
晶は締め付けから解放された胸をさすり、軽く頭を下げた。
「アキ、明日早くねぇだろ?」
「はい」
「奇遇だな、俺も。飲もうぜ。着替えてこいよ」
「別にこのままでも……」
肩の少し余る男物のシャツの裾に視線を落としながらそう言ったが、顔を上げた時に視界に飛び込んで来た章灯の妙に真剣な表情を見て、晶は「わかりました」と困ったように笑った。
わずか数分で戻って来た晶は、綺麗に身体のラインが出るグレージュのカットソーに黒のルームパンツという出で立ちである。
「おぉ!」
疲れた顔のままウィスキーを飲んでいた章灯は、晶の姿を見るなり破顔し、ポンポンと隣の席を叩いた。
「座れ座れ。アキの分も用意してあるから」
その言葉通り、テーブルの上には薄めに作ったカウボーイとミネラルウォーターのペットボトルがスタンバイされている。
「では、お言葉に甘えて……」
普段と何ら代わりのない部屋着姿なのに、どうしてそんなにも嬉しそうな顔をしているのか晶にはさっぱりわからない。多数のクエスチョン・マークを宙に浮かべつつ、腰を下ろした。
「はぁ――……」
ソファが晶の重みで沈んだ時、章灯は身体中の酸素を全て吐き出してしまうような深い深いため息をついた。
「落ち着く」
章灯が作ったカウボーイを一口飲み、それをテーブルに戻すと、今度はペットボトルを持ち上げた。晶が蓋に手をかけたのに気付き、章灯はその上に手を乗せる。
「なぁ、そういやアキは俺に『開けて』って言わねぇの?」
「え? 言いませんよ」
「何で?」
「何でって言われましても。自分で開けられますから」
「じゃあさ、たまにジャムの蓋が開かない時あるじゃん。ああいう時は?」
「そういう時のためにあのシリコンのやつがあるんです」
「いや、そうじゃなくてさ」
「じゃあ、どういうことなんですか?」
宙に浮かぶクエスチョン・マークは何一つ解明されないままどんどんと増えていく。このままのペースならあっという間にこの部屋を埋め尽くしてしまうだろう。
「いや、もっと俺を頼っても良いのになぁって」
口を尖らせ、拗ねたような声で言うと、晶は心底驚いたような顔をした。
「え?」
「い、いや、別にさ、カメラちゃんみたいに常に開けろって態度なのはどうかと思うんだけど」
驚いた顔のまま固まっている晶を見て、章灯は慌てて居住まいを正した。晶はふっと軽くなった自分の右手にほんの少し寂しさを感じつつも、徐々に火照り始めた自身の身体を落ち着かせようと、右手に力を込め、ペットボトルの蓋を捻る。そうしてから、あっ、と小さく叫んだ。
「すみません……。えっと……、開けてもらった方が良かった……ですか?」
蓋を握りしめたまま、気まずそうな顔を向ける。
「いやいやいやいや! だからそうじゃないんだって! 何ていうか……、何でも自分でやろうとするアキは自立した素晴らしい女性だと思うし! 思うんだけど……その……、道具を頼るくらいなら、俺を頼って欲しいというか……」
どんどん失われていく勢いに反比例して赤くなっていく顔を背ける。
いったい俺は何を言っているんだ。
そう思ってから、そう言えばさっきまで飲んでいたウィスキーはいつものよりも度数が高かったことを思い出した。しかも、よりによってストレートで飲んでしまっている。
顔は身体中の血液が全て集まってしまっているのではないかと思うほどに熱く、そして重い。発熱時のように頭がぼうっとする。
「いや……あの……忘れてくれ……いまのは……」
そう発した自分の言葉も何だか遠くから聞こえてくるようである。酔いは思った以上に回っているようだ。酔いと羞恥で耳まで赤くなった顔を片手で覆い、空いている方の手を晶に向けて振った。見ないでくれ。そんな思いを込めて。
「わかりました」
いつものようにぶっきらぼうにそう言って、晶は立ち上がった。
「もう忘れましたから」
その言葉を残して晶はすたすたと台所へ向かってしまった。相方を失った2人掛けのソファは妙に広く感じ、急に寂しさが込み上げてくる。
いや、そうなんだけど。忘れてくれとは言ったけど。言ったけどさ……。
素っ気ない晶の言葉と現在置かれている状況に堪らなくなり、章灯は思わず立ち上がり、彼女の後を追って台所へ向かった。
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