♪84 飯田果樹園

「まぁ、アンタじゃないとは思ってたけどな」


 湖上こがみは電話の向こうの冬樹に向かってため息混じりに言った。


 その日の夜、飯田家に電話をかけてみると、応対したのは皐月の実弟である冬樹だった。


「本当に申し訳ありません……。先日、テレビを見ていたら、その……、姉さんにそっくりな人が出てると思って……、名前は『AKI』って書いてて、その……姉さんもギタリストだったから、きっと、これはあきらだって妻に話したら……」

「そんなこったろうと思ったよ」


 おそらく、電話の向こうでは精一杯背中を丸めて頭を下げているのだろう。それが伝わってくるような弱弱しい声色である。


「で、その嫁さんはいま何してんだ」


 この弟では話にならん、そう思った。


「それが……、ちょっといま出掛けてまして……」

「はぁ? もう10時じゃねぇか? こんな時間にどこほっつき歩いてんだ?」

「さぁ……、どこに行ってるんだか、さっぱり……」


 おいおい、妻の管理くらいしっかりしろよ。


「まぁ、んじゃ嫁さんは良いや。……で、ちょっと聞きたいんだけどさ、お宅の果樹園、経営とか、大丈夫……だよな?」


 さすがに突っ込んだ質問だ。恐る恐る聞いてみる。すると、向こうもさらに弱弱しい声で返してきた。


「正直、おふくろが死んでから、ずっと経営はカツカツです……。自分はあんまり、経営とか、向いてないみたいで……」


 それは何となく想像出来た。


 でも、その辺はあの嫁がきっちりやりそうだけどな。


「何だよ、嫁さんは頼りになんねぇのか。金には細かそうだったけどな」


 皮肉を込めてそう言ってみる。


「夕実は……、何と言うか……、口だけというか……。それに、不妊治療だと言って、結構な金を持ち出しておりまして……」

「ああ、良いよ、そういう夫婦の事情はさ」

「違うんです……。治療なんてしてなかったんです……。アイツ、全部若い男につぎ込んでて……」


 冬樹の声は震えていた。

 泣いているのだろうか。時折、鼻を啜る音まで聞こえてくる。


「なぁ、冬樹さんさぁ、それ、もう別れた方が良いんじゃねぇのか」


 もしかして、いま出歩いているのだって、その男のところへ行っているのかもしれない。


「出来るなら、そうしたいです……。でも、アイツの方で、離婚だけは嫌だってきかないんです……」


 そりゃそうだろう。

 カツカツとはいえ、飯田果樹園は和歌山では割と名の知れた果樹園だ。自分には歯向かわない夫に、ネームバリュー。それに、旦那の姉の子どもは有名人だ。あの強欲な女ならこんな美味しい環境を手放すわけがない。


「一応、念を押しとくけどさ、晶と郁はそこを継がせる気はねぇからな」


 この弱りきった冬樹には言いづらい話だったが、それとこれとは別だ。


「わ……、わかってます。アイツはそのつもりでいるようですが、絶対にさせません。この果樹園は、私の代で終わりです……」


 絞り出すような声でそう話す冬樹は確か自分より3歳年上だったはずだ。なのに――、


 何だか定年間近のくたびれたおっさんみてぇだな。


「それを聞いて安心したよ。冬樹さんさ、あの嫁さんに全部持っていかれる前に手ェ打っといた方が良いと思うぜ、俺」


 完全な他人の俺が言うことでもねぇけどな、と自虐的に笑ってみる。


「わかってます……。でも、本人にその意思がないんでは、どうしたら良いのか……」


 冬樹は震えた声で言う。湖上も大きく息を吐いた。


「……なぁ、冬樹さん、交換条件と言うかな……」

 

 湖上は重い口を開いた。

 なぜか幼い頃の2人の顔が浮かんだ。

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