The Event 1(19××~20××)

10/31 Halloween 

「なぁ、アキ。今日は何の日か知ってるか?」


 午後3時、いつもより早めに帰宅した章灯しょうとは、早くも部屋着に着替えてソファにごろりと寝転んでいる。何せ明日も仕事なのだ。午前10時スタートの生放送で、お茶の間にいつも通りの笑顔を届けるにはさらに数時間前から準備をしなければならない。よって起床時間も必然と早くなり、このような生活リズムになるのである。それでも今日は早く帰れた方だった。


「何の日……でしたっけ」


 公私のパートナーであるあきらもまた、決して気軽に外出出来るような恰好ではない。

 出会った頃から全く変わらない細身の身体は、出会った頃とは違い女らしい曲線を描いている。せめてこの家にいる時くらいは、と女物を身に付けるようになったからだ。

 小難しい顔をして首を傾げる彼女を見て、「そんなポーズも様になるなぁ」などと考えてしまい、章灯はぶるると首を振った。そして気を取り直し、コホン、と咳払いをする。


「トリック オア トリート!」


 そう言いながら両手を差し出す。


「……はい?」

「アキ、今日はハロウィンなんだぞ」

「あぁ、そうでしたね」


 街はこうもハロウィン一色だというのに、相変わらず自分の興味の対象にならないものは視界に入らないらしい。いや、入ってはいるのだろうが、さっさと頭の中から消去してしまうのだろう。とはいえ、ハロウィンそのものに関する知識が無いわけではない。


「――というわけで、トリック オア トリート!」


 再びその言葉を繰り返し、彼女に向かってずずいと両手を差し出す。


 お菓子をくれなきゃいたずらするぞ。


 ハロウィンといえば、仮装、そしてこの言葉である。

 あどけない子ども達はこの言葉をその可愛らしい唇で紡ぎ、大人達から目当てのものを手に入れる。言葉通りにいたずらをする気など無い。欲しいのはその手のひらに乗せてもらう菓子だけなのだ。


 もちろん良い年の大人であれば、この言葉はどちらかといえばおまけであって、ハロウィンのメインは仮装である。

 さすがにそれくらいはわかっている晶は、なぜ章灯がそんなにもギラついた目でその言葉を繰り返すのかがわからない。


 そんなにお菓子が欲しいのか。


 そう解釈した晶は、自分よりも6つも年上なのに可愛いところがあるものだ、と思い、彼にくるりと背を向けた。


「――ん? アキ?」

「……クッキーでも焼きますから、少し待っててもらえますか。簡単なやつで良ければですけど」

「えっ? いや、俺は別にいたずらの方でも……」

「少し待っててもらえますか」


 いたずらなどされてたまるかと、被せ気味に念を押し、晶はキッチンへと消えていった。


 待つこと数十分。ふわりと甘い香りが漂ってくる頃、章灯はというと、ほんの少し拗ねていた。


 ここ最近忙しくすれ違うことが多かったため、ハロウィンというイベントの力を借りて彼女と触れ合いたかったのである。あわよくば今夜……という下心もあった。そりゃあもう多分にあった。


「はい焼けましたよ、クッキー。ホットケーキミックスを使ったやつで申し訳ないですけど」


 皿の上に乗せられたクッキーはまだ温かかった。1つ手に取りかじってみる。彼女が作るものは何もかもが当然のように旨い。さくさくとした食感も、そしてもちろんその味も、文句のつけようが無いほどである。

 自分の作ったクッキーを次々と口に運んでいく章灯の姿を見て、彼女は満ち足りた気持ちになった。そして――、


「トリック オア トリート」


 その言葉を吐いた。


「――んあ?」

「トリック オア トリートです、章灯さん。お菓子をくれないと、いたずらします」

「何? 困ったな、俺、菓子なんて持ってねぇし」


 そう返してから、あぁ成る程、と彼は思った。


 そうかそうか、アキも一緒に食いたいんだな。俺ばっかり食べてしまったら悪いよな。


 そう思い、いま持っているクッキーを最後の1枚として、残りが乗った皿を晶の方へ向けた。しかし彼女は意味ありげな笑みを浮かべて首を横に振った。


「いえ、の方にしました」


 その言葉に章灯は首を傾げた。

 そしてそのまま、手にしていたクッキーを口に運ぶ。最初の一口で旨いことは証明されていたため、2枚目以降から全て一口で食べていたのだ。


「しました……? ――って辛ぁぁっ!」

「1つだけハバネロ入りです。当たりましたね」


 軽く握った拳を口元に当て、クツクツと喉を鳴らす。こんなにも長く一緒にいるのに、章灯は彼女が大口を開けて笑ったところを見たことが無い。彼女の親代わりである湖上こがみですら、それを拝めたのはそれこそハロウィンを純粋に楽しむような幼少期のごくわずかな期間だけだったらしいので、恐らくこれが彼女なりの『爆笑』なのだろう。


「くっそぉ~~……。もう辛いを通り越して痛ぇ……」


 晶が小走りで持って来たミネラルウォーターをがぶ飲みした後で、章灯はいつもより厚い涙の膜で覆われた瞳で彼女を睨み付ける。そんな熱い視線を向けられた彼女の方はというと、すみませんと頭を下げたものの、その言葉は本来の重さを持っていないように思えた。


「何でウチにハバネロなんてあるんだよぉ」


 アナウンサーという『声』を扱う仕事をしているので、普段は喉に負担のかかりそうな激辛料理の類は口にしないようにしている。というか、章灯自身あまり『激辛』というものに惹かれない質であった。


「この間、コガさんが持って来たんです。『今度これでロシアンルーレットやろうぜ』って言って」

「やっぱりあの人かよ!」


 赤くなった唇をグラスで冷しつつ、章灯は声を上げた。


「章灯さん、唇真っ赤ですね。氷持って来ましょうか」


 ここまで来るとさすがに晶の方でも焦り始めたようで、そわそわしながら彼からの返答を待っている。唇の方はまだジンジンとしていたが口中は既に鎮火済みだ。だが――、


「頼むわ。このままだと歌えなくなるかも、俺」


 俯き加減でわざと弱々しく言ってみると、晶はソファから飛び上がり一目散にキッチンへと走っていった。その姿を見て章灯は笑いを噛み殺す。やがて大きめのグラスに溢れんばかりの氷を詰めた晶が戻って来ると、顔がにやけてしまうのを隠すように再び下を向いた。


「大丈夫ですか? すみません、入れすぎたみたいです」


 左手にグラスを持ったまま右手で章灯の背中を擦り、心配そうに顔を覗き込む。


 ヤバイ、見られたら笑ってるのがバレる。


「氷……」


 笑いをこらえつつ、やっとそれだけ言うと、晶は持っていたグラスを彼の額の辺りでカラカラと振って見せた。


「あっ、あります! ここに! たくさん持って来ました!」

「食わせて、アキが」

「わっ、私がですか……? え、えぇと、――はい、どうぞ」


 グラスの中の氷を1つつまみ上げ、章灯の口の方へ持っていくが下を向いているために上手くその中へ入れることが出来ない。


「章灯さん、すみませんが顔を上げていただけると……」


 懇願するような晶の声で章灯はゆっくりと顔を上げた。


「そうじゃなくて」

「――え?」


 少年のようないたずらっぽい笑みを浮かべて。


「指じゃなくて、口移しで。じゃないと、俺、もう歌えねぇ」

「くっ……、口……移しって……!」

「はーやーくー! 早く冷やさねぇとー」

「ままま待ってください。いきなりそんなこと言われても……!」

「ほら、そのちっこいやつで良いから。――あ?」


 赤く腫れた口を大きく開け、目をつぶった状態で氷を待つその姿に、晶は焦りながらも指定された小さめの氷を唇で挟んだ。そしてそのまま彼の唇に近付けたところで、せっかく届けるところだったその氷は彼の手で取り除かれてしまう。ぽかりと空いたその空間に、その代わりにと差し込まれたのは熱を帯びた彼の舌であった。


「――!? しょっ、章灯さんっ?」


 ぷはぁ、と晶が逃げるように唇を離す。そうはさせじと章灯は彼女の後頭部に手を回した。


「アキの唇冷えてて気持ち良い」

「そんな。私より氷の方が……」

「いらねぇ」

「でも、ちゃんと冷やさないと――」


「俺だってtreatおかしよりtrickいたずらがしてぇんだもん」


 口を尖らせてそう言うと、章灯は軽く晶の唇を噛んでから、再び優しく口付けた。



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