♪78 親父の涙

「――とまぁ、そんなわけだ」


 湖上こがみは3本目となるギネスで喉を潤した。

 目の前には、ゴミ箱をお供に箱ティッシュを小脇に抱えて鼻を真っ赤にしている章灯しょうとの姿がある。声を上げて泣いていたのは皐月が亡くなったところと、湖上が夕実の前で啖呵を切ったところだったが、余韻が残っているらしく、なかなか止まらない。


 時折声を詰まらせながらもなぜか得意気に話し切った湖上と、既に瞼が腫れあがっている章灯を長田おさだは呆れたような顔で見つめる。



 いるんだよなぁ、本題と関係ない話を語りまくるやつって……。



 もともとは章灯の「でも、アレって、アキの母さんの曲なんですよね?」という発言が引き金である。


 アレというのは、晶のカバーアルバム『SUPERNOVAスーパーノヴァ』のことで、確かに長田は湖上に「お前から話してやれ」というようなジェスチャーはした。それは事実である。ただ、ここまで話せとは言っていないはずだったが。


「はぁ……、コガさん、苦労したんですねぇ……。女の子2人育てるなんて大変だったでしょうに……」


 章灯がまたティッシュを涙で濡らす。


「大変なんてもんじゃねぇよ。夜泣きやおねしょなんて毎日だったしよぉ。アキは昔から身体が弱くてなぁ」


 湖上も当時を思い出したのだろう、章灯の前にあるティッシュを1枚引き抜き、瞼に当てた。


「だから、俺はかおるが千尋を連れて来た時は目の前が真っ暗になってなぁ……。アキはアキで、全ッ然色気づかねぇしよ。こりゃー、責任取って俺が貰うしかねぇんじゃねぇかとまで思ったりよぉ」


 その発言に声を上げたのは長田である。


「何だと! お前、アキに手ェ出したのか!」

「出してねぇよ。30まで彼氏がいなかったら考えたけどな。いまは章灯がいるし、俺は安心だよ」


 そう言って、ギネスをぐいと飲む。


「だって、アキは皐月に瓜二つなんだもんなぁ。見た目も、ギタースタイルも。――ま、ギターは皐月をお手本にしてたから似るのは仕方ねぇんだけど。手を出したくても出せなかった女と瓜二つなんだぞ? それでも我慢した俺ってすごいと思わねぇ?」


 胸を張って得意気な表情の湖上に長田は呆れ顔でため息をつく。


「だからって、その辺のお姉ちゃんを食い散らかして良いわけじゃねぇからな。お前いつか刺されるぞ」

「大丈夫、大丈夫。ちゃんと割り切ってるからさ。心は皐月に持って行かれちまったんだ、身体ぐらい良いじゃねぇかよ」


 俺だって、寂しいんだよ、と付け加えて残りを一気に飲み、テーブルに突っ伏した。


「でも、章灯に取られるとはなぁ……」

「コガさん、さっき安心だって言ったくせに」


 そう言いながら背中を優しくさする。


「本当に頼むぞ、このヘタレ野郎。アキを悲しませたら、ただじゃおかねぇ」


 湖上は涙声だ。


「俺もただじゃおかねぇから安心しろ、コガ」


 長田が笑いながら湖上の肩を抱くと、涙声のまま「その時は2人でぶん殴ってやろうぜ」と言った。


「俺だって、アキを悲しませたくなんてないですよ」


 ぽつりと言うと、湖上は顔を上げ、満足したように頷くとあきらの部屋を指差した。


「それが聞けて良かった。おやすみ」

「――は?」

「え? 一緒に寝てんじゃねぇの?」

「寝……たりはしますけど……。アキ、もう寝てますし」

「もぐりこまねぇの?」


 湖上が残念そうに言う。


「そんなことしませんよ! 明日めっちゃ怒られますって!」

「お? 前科有りか?」


 長田が興味津々な顔で身を乗り出す。


「いえ、前科っていうか……。アキから誘って一緒に寝たはずなのに、起きたら覚えてなくて、軽蔑のまなざしで見られたというか」

「アキからの軽蔑のまなざし……。お前ならご褒美だったんじゃねぇの?」


 長田は握りこぶしを顎に当て、真剣な表情だ。


「何でですか! そんな趣味ないですよ!」

「ていうか、アキから誘うって、すごいこと起きてんなぁ、おい」


 湖上も握りこぶしを顎に当て、真剣な表情である。


「あの日ですよ! コガさん達がホワイトデーのお返しにって入浴剤プレゼントした日! 俺の水割り飲んじゃって、アキ泥酔しちゃった時!」

「おお、あの日か。で、何でそこまでの状況でその日にしなかったんだよ」


 湖上は眉間にしわを寄せて章灯に迫った。


「だって……、やっぱり怖がってましたし……。それに……、アキ、寝ちゃったんで……」


 俯き加減で濃すぎる水割りをちびりと飲む。


「さすがは章灯だな」


 長田は感心したように頷いた。


「まぁ、デビューまであともう少しだし、あんまりおかしなことはしない方がいいか」

「おかしなことなんて元々する気はありませんけどね」


 章灯は呆れ顔で水割りを飲んだ。

 少し頭が落ち着いてきて、ふと思い出す。


「そういえば……。最初、アキを引き取ったのってアキのお父さんが恩人だからとかって言ってませんでした?」

「ん? 気付いちゃった?」


 湖上はばつが悪そうにへへっと笑った。


「それも嘘ですか……」


 流石の湖上も惚れた女の娘を引き取ったとは言いづらかったらしい。


「100%パー嘘って訳でもねぇよ。社長にはだいぶお世話になったし。なぁ、オッさん」

「おぅよ。食えねぇ時に何度飯おごってもらったか……。うぅ……」


 長田はわざとらしく涙を拭うジェスチャーをする。

 章灯は、はいはい、と呆れた声を出し、もうありませんね、と念を押した。


 2人は「たぶん」と返しただけだったが。



「章灯さん、今日はオフですよね」


 章灯はやや重たい二日酔いの頭を抱えた状態で、晶のしじみの味噌汁に舌鼓を打っていた。


「オフだよ。どうした?」


 晶は俯き加減でもじもじとしており、その様子にもしかして、と胸が高鳴る。


「すみません、これ……」


 そう言いながら差し出してきたものを見て、章灯の淡い期待は打ち砕かれた。テープである。


「そんなにすまなそうに出してきたってことは、さては1曲じゃねぇな?」


 ニヤリと笑って受け取ると、晶は小さな声でぽつりと「3曲……」と言い、さらに深く俯いた。


「さっ……3……っ!? おいおいいつの間に作ったんだよ」

「スランプの前に作ったやつと、スランプ中のやつと、脱出した時のやつです」

「成る程……。でも、これはそんな急ぎじゃねぇよな……?」


 恐る恐る聞くと、晶はちらりと章灯を見て再度俯いた。


「え……? 何……? どういうこと……?」

「発売予定は……8月です……」

「8月……? この音楽業界のど素人にわかりやすく説明してくんねぇかな?」


 章灯は汁椀と箸を置いて、正座をした。それにつられて晶も姿勢を正す。


「いつものやり方ですと……、レコーディングしてから、だいたい3ヶ月後に発売します」

「ということは、いまが3月の終わりだから……、なぁんだ、そんな急ぎでもねぇじゃん」


 ホッとして再度足を崩す。


「そうなんですけど……。でも、念のため、デビューの前日までにお願いしたいです」

「まぁ……それくらいあれば……。でも、何でだ?」

「たぶん、デビュー後はいきなり忙しくなりますよ」


 晶はそう言うと、少し顔をしかめた。


「章灯さん、『シャキッと!』以外の仕事入ってますか?」

「そう言われると……」


 情けない話だが、そう言えばいまのところ4月の仕事は『シャキッと!』しか入っていないのだ。


「おそらくですが、4月の予定はイベントや取材等で全部埋まります」

「そうなのか? まだ売れるかどうかもわかんねぇってのに」

「わかります。売れます。少なくとも、社長はそう思っています。ですから、これから、本当に忙しくなります。章灯さん、頑張ってください」


 晶は章灯の目をまっすぐ見つめて言った。その迫力に圧倒される。


「それと……、これ……」


 晶はポケットから小さな包みを取り出した。さっきまでの勢いもなく、また下を向いて章灯に手渡す。


「ん? 今度は何だ?」

「お守りです」


 下を向いたままぽつりと言う。

 章灯はそれを受け取ると、お守りにしてはやけにごろっとしてるなと思いながらゆっくりと包みを剥がした。


「アキ、これってお守りか……? 俺の知ってるお守りと何か形状が違うんだけど」


 取り出したものを顔の前で振りながらニィっと笑う。


「アナウンサーから、ヴォーカリストにうまく切り替われるようにの『お守り』です」


 晶は一度章灯の顔を見てから、視線を外し、口を尖らせてぼそぼそと言った。


「サンキュ、本番頑張ろうな」


 そう言って、右手を差し出すと、晶は「はい」と言って手を差し出した。握手だと思ったのだろう。その手をぐいと引っ張って素早く甲に唇をつけた。


「えっ……?」


 晶が顔を赤らめて動揺したところで抱き寄せ、今度は唇に軽くキスをする。


「章灯さん、まだ、明るいのに」

「じゃ、暗かったら良いんだな? ……夜が楽しみだ」


 なーんて、と言って笑うと、晶はゆでダコのように顔を真っ赤にさせ、鼻を押さえた。


「……出たか?」

「……そんな気がしました」



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