♪59 恐ろしい2人
洗い物を片付けた
ドライヤーで髪を乾かし、シャワーを浴びたばかりなのに『気合いを入れる』という名目で冷水で顔を洗った。気合は……入ったような気もするが、気のせいかもしれない。
地下へと続く扉の前で大きく深呼吸をし、よし、と呟いてドアを開ける。
とんとんと階段を下りるとふわりとシトラスの香りが漂ってくる。この香りは今後、彼女の香りになるのだろう。
その香りに混ざって、アコースティックギターの音色が聞こえる。新しい曲だろうか。それとも3曲のうちのどれかか。
「お待たせ」
そう言って晶に近づくと、一度ちらりと章灯を見て、隣に用意されてある折り畳み椅子に視線を移した。恐らく、ここに座れと言うことだろう。おとなしくそれに従う。
「その曲、何だ?」
「わかりませんか? 『ORANGE morning』ですよ」
「いやぁ恥ずかしながら、そうやってアコギ1本だとちょっと……。テンポも違うし……なぁ」
「まぁ、コードしか弾いてませんからね。これならどうですか」
そう言ってイントロを爪弾く。
「あぁ、これなら」
聞きなれたメロディに安堵し、晶の弾くイントロに合わせて鼻唄を歌う。
「歌いませんか、このまま。アコースティックで」
「えっ? お、おぉ……」
そう返したものの、正直自信がない。何せこの曲のアコースティック・バージョンはいま初めて聞くのだから。
「……入るところ、合図しましょうか」
さすがに晶にも伝わったらしく、苦笑混じりでそう提案される。
「い、イントロがあれば入れるよ。さすがに……たぶん」
ギターを弾きながらの笑みは本当に反則だと思う。口を尖らせ、強がってそう言ってみたが、結局、晶は入るタイミングで小さく「さん、はい」と言ってくれた。
憂鬱な月曜日を蹴り飛ばすようにして始まるこの明るい曲も、アコースティックだとだいぶ雰囲気が変わるんだなぁ。
そう思いながら、語りかけるように歌い始める。
アップテンポの際にはただ平坦に伸ばすだけだった箇所も、このテンポだとそれでは味気ないように感じ、わざと音に高低をつけてみたり。
歌詞についても、日々がむしゃらに戦いながらも恋に邁進する、という内容が微妙に自分と重なり、少しだけ変えてみたり。
ちらりと晶を見ると歌詞を変えたことに気付いたようで不思議そうに見つめ返してきた。間違えたとでも思ったのだろう。しかし、その後もじっと目を見つめたままあえて強調して歌うと、それがわざとだということに気づいたのだろう、頬を染めて目を逸らした。相手を固定するとなかなかにストレートな内容の歌詞なのである。
しばらくの間、晶は途中コーラスを入れつつも、黙々とギターを鳴らしていたが、1人で歌うはずの箇所にも1オクターブ上の音を重ねてきた。
もうすぐ歌い終わると油断していたところに重ねられた透き通るような高い声に驚いて隣を見ると、晶は目を細め、得意気な顔をして笑っている。
お返しか。
そう思い、ニィッと笑って返す。
歌い終えてもまだギターの音は止まらない。ちらちらと隣を気にしながら、アドリブで歌う。さすがに歌詞も何もない。やがて晶がこくりと頷いた。そろそろ終わりだということだろうと思い、息が続く限り声を伸ばした。
「さすがですね、章灯さん」
ギターを構えたまま、晶は身体を起こして言う。
「何がだよ」
「いろいろアレンジしてたじゃないですか」
「え? あ――……、何となくな。おかしかったか?」
「いいえ、全然。ついこっちもつられてしまいました」
「何かなぁ、良いもんだな、こういうのも」
「章灯さん、さっきのってあの場で考えたんですか?」
「え? そりゃそうだろ。だって、こんな風に歌うなんて思ってなかったしさ。あんな風にアレンジ出来るもんだってのも知らなかったし、俺」
そう言いながら足を組んで鼻唄を歌う。
「……ほんと恐ろしい人ですよ、章灯さんは」
晶は小声でそう呟いた。
「――うん? 何か言ったか?」
「いえ、何も。それはそうと、さっきの話の続きは」
晶はギターをチューニングしつつ、さらりとそう尋ねてきた。
「え、あーそうだなぁ……。覚えてたか……」
正直なところ、章灯としては、いまので忘れててくれればなぁなんて思っていたのだが。
「そんな難しい話じゃねぇよ。単にコガさんに焼きもち焼いただけだって」
「どうしてコガさんに。あの人は本当に親代わりで……」
晶はギターを肩から下ろし、膝の上に置いた。
「それは俺だって知ってるよ。でもさ、仕方ねぇだろ、焼いちまったもんはさ」
口を尖らせ拗ねた口調でそう言うと、章灯はぷいとそっぽを向いた。
「コガさんの方が何かと頼りになるし、この道のプロだし、身長もあって、ガタイも良いし」
声はどんどんと小さくなり、その度に晶は身体を屈めて耳を近付けなければならなかった。
顔を背けたまま背中を丸めていじけている章灯を見て、晶は「男の人って皆こうなんだろうか」と彼に気取られないように小さくため息をついた。
自分よりも年上なのに何だか小さな男の子のようだ。
今度ははっきりと章灯にも聞こえるようにため息をつくと、人差し指でとんとんと肩をつついた。
「キャリアはどうにもなりませんし、身長も……充分だと思うんですけど。それに、歌に関しては章灯さんの方が格段に上です。声質も良いですし、テクニックもセンスもあります」
肩を突かれ振り向くと、呆れ顔の晶がいる。晶はその表情のまま淡々と話した。
「そう……かなぁ……。コガさんだって上手かったし、声もカッコ良いじゃん。ちょっとハスキーな感じでさぁ」
褒められているのはわかる。でも何となく手放しで喜べず、心はまだいじけたままだ。
その様子を見て、晶は一度章灯から視線をはずし、しばらくそのまま考えていたが、やがて決心したように険しい顔になり、ふぅ、と大きく息を吐いてから言った。
「コガさんの歌声は、特に好きな声質ではありません」
「――え?」
「もちろん、章灯さん以外にも良い声の方はたくさんいます」
「お、おぅ……」
そりゃあそうだ。何せ晶はいろんな人に曲を提供しているのである。たくさんの人の声を聴いているはずだ。
「でも、コガさんの声で曲を作ったことはありません」
「そう……なのか……?」
「そうです。コガさんに聞いていただければわかりますよ」
「でも」
「まだ必要ですか?」
「まだ……って何がだ?」
晶の言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「あんまり得意じゃないんですけど、こういうこと言うのは」
その台詞でこれはどうやら晶なりに自分を励まそうとしていることに気付いた。晶は眉をしかめて困った顔をしている。
晶を困らせるのは本意ではない。ないのだが、でももう少しだけこの顔を見ていたい。
「出来れば……、もうちょっとあると……良いんだけど……」
おそるおそるそう言ってみると、晶はさらに困った顔になり、ギターのボディの上に両手を置き、顔を伏せた。
「……章灯さんの声がいちばん好きです、私は」
聞こえるギリギリの大きさで晶はぽつりと言った。
驚きと嬉しさで言葉が出ない。
晶はどうやらそれを『まだ足りていない』と判断したらしい。
「別に……、朝だって……、びっくりしただけで……、嫌だったわけでは……」
顔を伏せたまま泣きそうな声でそう続ける。
――やばい、やり過ぎた!
「いや、アキ! もう良い! もう大丈夫だから! それ以上は良いから!」
本当は続きを聞きたい。でもこれ以上言わせるのはアキに酷だ。
「ほんと恐ろしいやつだな、お前は」
天然なのか何なのか、あんなにしょげてた俺をここまで有頂天にしちまうんだからな。
ぽつりと呟き、まだ顔を伏せたままの晶の背中を優しくさすった。
「ありがとうな、アキ。すげぇ元気出た。嫌じゃないなら、今晩も一緒に寝るか? ……なーんて。ははは」
アキからの冷めた「結構です」を期待して、おどけてそう言ってみる。
晶はその言葉に肩をぴくりと震わせ、顔を少しだけ動かして潤んだ横目で章灯を見つめてから、「……何もしないなら」と言った。
――ちょっと待て。
言っとくけど、昨日誘ったのはお前の方だからな!
その言葉をぐっと飲み込み、「何もしねぇよ」とだけ言った。
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