♪43 ジレンマ
トレイの上には小さめのおにぎりが2つと温かいお茶が乗せられている。残ったおかずはラップをして調理台の上に置いてある。これで落ち着いたら食べれば良いし、いらなければ明日の朝に回しても良い。
そのトレイを持って、
「……あいよ」
その声を聞いて、ゆっくりとドアを開けると、章灯はベッドの上に仰向けで寝転んでいた。
「ああ、わざわざ飯持って来てくれたのか……。悪いな、そこ、置いといてくれ。ちゃんと食うからさ」
そう言うと、晶に背を向けるように寝返りを打つ。
晶は綺麗に整頓されている章灯の部屋をぐるりと見渡した後、トレイを持ったままベッドの上にすとんと腰を下ろした。
足元が沈む感覚で晶がそこに腰掛けたことに気付き、章灯は驚いて振り向く。
「――アキ?」
「ここにいます」
「――え?」
「章灯さんが食べ終わるまでここにいます」
晶は章灯の方を見ず、まっすぐ前を見ている。
「……ちゃんと食うって」
「ここにいます」
「まいったな……。1人にしてくんねぇのかよ」
「しません」
「お前なぁ……」
章灯は身体を起こし、胡坐をかいて両手で顔を覆った。
「コガさんの指示か?」
「半分、そうです」
「何だよ、半分って」
覆っていた手を外し、晶を見る。
「コガさんはおにぎりを握ってやれとしか言ってません」
そう言うと晶は章灯の方を見た。
「ここに残っているのは、私の意思です」
「……そんな恰好で『私』とか言うんじゃねぇよ。……くそ」
見た目で油断していたところで『女』を意識させられ、章灯は顔を背けた。
「服は男物ですけど、下着は女物です」
「……言うんじゃねぇよ。想像すんだろ。俺、お前の下着全部知ってんだからな」
「すみません」
「いま荒れてんだから、……お前、出てった方が身のためだぞ」
「八つ当たりでもしますか」
「……そういうことじゃねぇよ。わかれよ」
どうしてこいつはこんなに危機感がねぇんだよ。
そう思ってまた顔を覆う。
晶は背中を丸めて顔を覆っている章灯を見てトレイを足元に置き、四つん這いでベッドに上がった。
章灯は顔を覆ったままだったが、マットレスの沈み具合で晶がゆっくりと近付いてくるのを感じた。一歩、また一歩と距離が縮む。自分の身体も軽く傾いて、晶が至近距離にまで近付いてきたことに気付き、顔を上げた。
「……近ぇって」
文字通り目と鼻の先にまで接近していた晶の顔に驚きながら、目を伏せて下を向く。そこへ晶の両手が伸びてきて彼の頬を挟み、前を向くように軽く上げさせられた。
「おい何すんだ」
「章灯さんだってこうしたじゃないですか」
「あれはお前の化粧した顔を見るためだろ」
「人の恥ずかしい顔を見たんですから、こちらにも権利はあります」
「権利って……」
本当に色気のないことを言いやがる。
ほとんど表情の変わらない晶の顔をじっと見つめる。
章灯は晶が声で笑ったり泣いたり怒鳴ったりしたところを見たことがない。まぁ、まだ知り合って日も浅いから、当然なのかもしれないが。
……なかせてやろうか。このまま無理矢理押し倒して。
ふとそんな考えが浮かび、自分はそんなやつだったのかと自己嫌悪に陥る。それを実行する代わりに頬に当てられた両手を外し、ぎゅっと抱き締めた。
「章灯さん?」
「……頼む。ちょっとだけ我慢してくれ」
コガさんがアキに抱き付いているのを何度か見たことがある。アキはだらりと手を下ろして呆れた顔をしていた。慣れてんだろ、こういうの。だったら俺がしたって良いじゃねぇか。
抱き締めてみると、服越しの身体は柔らかく、ほんのりと温かさが伝わってくる。体温で温められた柔軟剤の香りが鼻孔をくすぐり、理性が吹っ飛びそうになる。
――何だよ! コガさんは何で我慢出来んだよ! 親父だからか? そこはやっぱり親父だからなのか?!
晶は、というと、父親代わりの
「……ごめん」
ささやくような声で章灯がそう呟く。
「何がですか」
晶の声はいつもと変わりなく、抑揚に乏しい。
「いろいろだよ」
「良いですよ」
「もう少し、良いか」
「構いません」
「……もうちょっと色気のある言い方しろよ」
「嫌です」
「……嫌ってことは出来るんじゃねぇか」
「出来ません」
「あと……、もう擦らなくて良い。頼むから」
「落ち着きませんか」
「落ち着くけど……、落ち着かないというか」
「どういうことですか」
「お前にはわかんねぇだろうけど、男には色々あんだよ」
「そうですか……。離れた方が良いですか」
「いや、出来れば、もう少し……このままで」
「ほんと、悪かったな」
章灯はすっかり冷めてしまったお茶を片手におにぎりを食べている。
「食べる元気が出て良かったです。あそこまで荒れた理由は聞かない方が良いですか?」
晶はちらりと章灯の顔を見る。心配しているような、けれど普段とそう変わらないようなその顔を見て、章灯は観念したように息を吐いた。
「……良いよ、話すよ。俺さ、仕事減らされたんだ。これから忙しくなるだろうからってさ。2足のわらじはきつかろうってよ。良い会社だよなぁ。俺の身体を気遣ってくれてさぁ。いやー、上司に恵まれたな、俺」
晶は相槌も打たずに黙っていたが、章灯は構わずに話し続けた。
「これでアキがバンバン曲を書いても、歌詞書く時間が作れるぞ」
はははと笑ったが、やはりいつもよりは元気がない。
最後の一口を口の中に押し込み、お茶で流し込むと、章灯はトレイの上に湯呑を置いて立ち上がった。
「ごちそうさん。うまかった」
「章灯さん」
「何だ?」
「無理しなくて良いんですよ」
「……無理してねぇよ」
そう言って、ドアノブに手をかける。
「あとは時間かければ大丈夫だから。ありがとうな、アキ」
章灯は振り向いてそう言うと、部屋に晶を残したままキッチンへ向かった。
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