♪41 (良い+悪い)話
「
日の出テレビ5階の男子トイレで、局長の榊がホクホク顔で
「局長……、聞いたって、何がですか?」
章灯はチャックを上げながら、榊の顔を見つめ、手洗い場へと移動した。
榊は念のため、個室が空きであることを確認してから、それでもさらに声を潜めて言う。
「アニメのタイアップだよ。社長も喜んでたぞ」
「――え? あ、ああ……。すみません、何の報告もなく……」
「いやいや、良いんだ。そっちの方はカナレコさんの管轄だからな。どうせ社長同士は筒抜けなんだし、俺には事後報告で構わん。いやーしかし、これは話題になるぞ~」
そう言いながら小便器の前に立ち、チャックを下ろした。
「でな、お前もこれから忙しくなるだろうから――」
そうだったな、そういえば。
何だか昨日のバタバタですっかり忘れてたけど、そういえばタイアップが決まったんだった。
これで、渡辺社長も
「アキもアルバム作るって張り切ってたしなぁ……」
人気の少ない廊下でぽつりと漏らす。
またあのハイペースで作るんだろうか。
気に入らないと時間かけても作れないって言ってたから、ポンポン出来るのは、それほど俺の声を気に入ってくれてるってことで、それは良いことなんだけど……。
アキはその分、身を削って作るわけで。
俺は、その分の歌詞を書かねばならないわけで。
だから、さっきの局長の話は正直ありがたい。ありがたいけど。
本日の業務を終え、帰り仕度をしていると、デスクの上に置いておいた携帯が振動した。サブディスプレイには『
そう言えば、白石さんから着信が来るのは初めてだ。マネージャーといってもまだ本格的にORANGE RODの仕事はしてないからなぁ。
そう思いつつ、鞄を放置したまま携帯を持って廊下に出る。人気のないところへ移動しながら通話ボタンを押した。
「すみません、お待たせしました」
「申し訳ありません。まだお仕事中でしたか」
「いえ、ちょうど終わって帰るところでしたから……。あの……それで……?」
「ああ、すみません。ちょっとスケジュールの変更がございまして……」
麻美子は、当初予定していたレコーディングの日程が大幅に早まったことを告げた。
オッさんの言った通りだ……。
『イケると思ったら、おそらくスケジュール組み直して……来月辺りにでもレコーディングして、プロモーションビデオ作ってだろ』
その
「山海さん本業の方もお忙しいのに、本ッ当に、申し訳ないです」
電話の向こうで何度も頭を下げているのだろうと予想出来るほど、麻美子は終始謝りっぱなしである。
「ああ、大丈夫ですよ、さっき局長にしばらく『WAKE!』以外の仕事は全部代わりの人にやらせるって……言われましたから……」
はははと力なく笑うと、麻美子は「えっ……」と短く呟いたきり黙ってしまった。
「あ、で、でも、はっきり降板と言われたわけじゃないんで……。大丈夫ですよ! 白石さんが心配しなくても! ほんと別に降板とかじゃないですから! ……たぶん」
「でも……」
「いえ、逆に、こうなったらほんとそっちにかけるしかないんで、頑張りますよ!」
章灯は精一杯の虚勢を張って、麻美子との電話を締めた。
「はぁ……」
とぼとぼと自分のデスクに戻り、途中だった帰り仕度の続きをして、章灯はいつもより早い時間に退社した。
「今日は早かったですね」
家に入ると、
「今日は、じゃなくて、これからはずっと早ぇよ」
出来るだけ何てことないように話したつもりだったが、それが失敗していることは自分にも良くわかる。煩わしそうにネクタイを緩めながら自分の部屋に入り、ベッドに鞄を投げた。
見たことのないやさぐれた章灯の態度に、さすがの晶も何かあったのだろうと察しはついた。しかしかといってどんな言葉をかけたら良いのかわからず、黙々と夕飯の仕込みを続ける。
部屋着に着替えた章灯は、晶に指摘される前に洗面所に向かい、うがいと手洗いを済ませ、ついでに顔も軽く洗った。鏡に映る自分は何だか情けない顔をしている。
俺は、そもそも歌の仕事に就きたいと思ってた。
でも、元カノに言われてアナウンサーになったんだ。そうだ、元々はそうだったじゃないか。
だから、この状況は願ったり叶ったりなんだ。
2足のわらじだけど、諦めた夢の方に比重を置いて良いなんて言われてんだぞ?
良い話じゃねぇか、なぁ。
いろんな言葉を投げかけては自分を納得させようとする。けれども――、
「俺、思ってた以上にこの仕事好きだったんだなぁ……」
下を向いてぽつりと呟くと視界がぼやけてきて顔を上げた。
成る程、涙か。なぁんだ俺、泣いてんのかよ。なっさけねぇ。
苦笑するとぽろりと涙が落ちた。
カッコ悪すぎてやんなるなぁ、マジで。
リビングに戻ると、エプロンを外した晶がソファに座り、足を組んで本を読みながらコーヒーを飲んでいる。着ている服は男物だが、家の中ではもうさらしを巻かないことにしたらしく、胸にふくらみがある。晶はドアの前に立っている章灯に一度視線を向けたが、またすぐに本に視線を落とした。その姿が何だか様になっていのが悔しい。
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、自分も飲もうかとキッチンへ向かうと、調理台の上にコーヒーの入った青いカップが置かれている。ほわほわと湯気が上がっており、どうやら淹れたばかりらしい。
「これ、俺の?」
キッチンから晶に向かって問いかけると、「
テーブルの近くに行くと、どうやら晶が読んでいるのは『歌う! 応援団!』の原作本のようで、足元にはおそらく読み終えたものとこれから読むものが分かれて平積みされている。
「アキってマンガ読むのか? 何か意外な感じする」
「あまり読みません」
「やっぱり。じゃ何で読んでるんだ?」
「今回はたまたまハマりましたが、2期はちゃんとこのイメージで作りたいので」
「もう2期を見越してるのかよ。まだ1期も始まってねぇのに……」
「それに、反響によってはキャラソンを依頼される可能性も出て来ますし」
「キャラソン……? ああ、キャラクターソングか」
「章灯さんが歌うわけではないので、ちゃんと作れる自信はありませんが、もし依頼されたら、そこはプロですから」
そこまで自分の声を気に入ってくれているのかと、その言葉にどきりとする。
「まぁ、それに関しては別の人に依頼するかもしれませんが、ORANGE RODも長期でやれそうですし、いろんな曲を作るためにも、こういうところからも刺激を受けておかないと」
「こういうのも曲作りのヒントになるのか?」
「なったり、ならなかったり……ですかね。他の人の音楽を聞いたり、映画を見たりもします」
「そういうもんなんだな。……ていうか、コレ、全巻?」
テーブルの上にカップを置き、床に胡坐をかいて、平積みされた本をざっと数える。確実に30冊はある。膝をつき、未読の方の一番下にある最終巻を見ると36巻と書いてあった。
「……まだ連載中ですが、現時点では」
「買ってきたのか? 一気に?」
「ネットで、ですけど。大人買い、ですね」
「確かに大人だしな、お前。でもコレまだまだ続くだろ。お前の部屋、置くとこあんのかよ」
1巻を引っ張り出し、ぱらぱらとめくりながら言う。ちらりと晶の顔を見ると、ハッとした顔をして章灯を見つめている。
「……ないんだな」
何だか急に力が抜け、笑いが込み上げてくる。先にスペースを確保しとけよ、と。
「良いよ、本棚買ってきてここに置こうぜ」
そう言うと、晶はすまなそうに頭を下げた。
「ただし、読む時はここで読めよ。アキの部屋に持ち込んだらそのまま神隠しに合いそうだしな。……『紙』だけに。なんちゃって……」
注意事項を思いついたダジャレと共に言ってみると、晶は目を見開いて章灯を凝視する。
「……章灯さん……いまの……」
「……ごめん。何か思いついちゃって」
「……別に、構いませんよ」
「……いや、忘れてくれ。……出来れば」
「なぁ、炬燵買わね?」
全国チェーンの家具屋で、章灯は展示されている炬燵を眺めながら言う。
「炬燵ですか」
晶は布団をばふばふとめくりながら何やら考えている。
「……いま、ギター弾く時これ邪魔じゃねぇかなって考えてたろ」
ニヤリと笑い、晶の顔を覗き込みながらそう言うと、「べっ、別に……!」と晶は図星だったようで明らかに動揺している。
「でも、コレ買っちゃったら、アキがリビングで寝ちゃう、か」
「たぶん、コガさんも寝ちゃいます」
「ああ……だな。よし、やっぱり本棚だけで良いな」
これ以上長居されてたまるか、と、章灯は組み立て式の本棚を持つと、レジへ運んだ。
本棚の箱をSUVの後部座席に積み、家に向かって走らせる。
「章灯さん、白石さんから連絡もらいました?」
「ああ、帰り際に電話来た」
「レコーディング、来週ですけど、大丈夫ですか」
「大丈夫かって改めて聞かれちゃうとなぁ……。何せ初めてだから、大丈夫か大丈夫じゃないかまったく見当もつかねぇ」
そうですよね、と聞こえるギリギリの大きさの声で晶が呟く。
「アキはいないのか?」
「います。でも、もしかしたらコガさんとオッさんは別録りかもしれません……。まだ聞いていないのでわかりませんが」
「そういうもんなのか。じゃ、今後アキがいないこともあるのか?」
「いえ、それはあり得ません」
「そうなのか」
「誰がOK出すと思ってるんですか」
「……お前なの?」
「そうですけど」
「……よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
かしこまって頭を下げると、晶も前を向いたまま軽く頭を下げた。
「まぁ、でもアキがいるなら大丈夫そうだわ」
「――え?」
「何となくな。そう思った」
「……厳しいですよ」
晶は横目でちらりと章灯を見て、笑った。
ふいに見せた笑顔に鼓動が高鳴る。
おいおい、『男』の時は勘弁してくれよ。
さりげなく左胸をさすり、自分の心臓に突っ込みを入れる。
毎日こんなんだったら、さすがに持たん。
そんなことを思いながら。
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