♪22 ヘタレ・真面目・紳士
「……お前のせいだ」
小綺麗なトイレの中で、
男女兼用の広い個室の中には全身が映せる鏡と大きめの洗面台が備え付けられていた。全身鏡の前は1段高くなっており、そこで着替えなども出来るようになっている。
トイレはこの1つしかないので、長居は出来ない。そう思いながらも、誰にも聞かれないで電話をかけられるのは外以外ではここしかない。
「……何とかしろ。お前のだろ。明日持って行くからな。……ダメだ、もう家には来るな」
ぶっきらぼうにそう言って、一方的に電話を切る。
そして、ため息をついて鏡に映った自分の姿をまじまじと見つめた。
身長は170㎝と大して高くもなく、肩幅もそれほどあるわけでもない。そして全体的にひょろひょろとして何とも頼りない。
その上、顔は母親似の女顔である。極めつけは、この声だ。
晶はもう一度大きくため息をつくと、洗面台で顔を軽く洗い、備え付けのペーパータオルで水気を拭き取った。
晶がカウンターへ戻ると、さっきまで座っていた席は
少しホッとして、隣に腰掛けると、晶に気付いた長田がニヤリと笑った。
「やっちまったなぁ、アキ」
「……言わないでください。結構ショック受けてるんですから」
晶は顔をしかめてカウボーイを飲み、ちらりとチェイサーに視線を移す。
「章灯もだいぶ気にしてたぞ」
「……ブラジャーをですか」
「お前のことだよ。見つけなきゃ良かったっつーか、指摘しなきゃ良かったって、頭抱えてた」
「ああ」
だったらしてくれるな、と思い、チェイサーに口をつけ、ごくりと音を立てて飲んだ。
「お前のためなら、俺もコガも何でも協力するけどさ、たぶん、章灯も同じだと思うぞ。アイツは優しいし、良い男だ」
「そう……ですかね」
「相棒なんだし、良いんじゃねぇのか?」
晶は無言で首を振った。まだその時ではないと思う。
「お前が良いなら俺らはそれで良いけどさ」
「……決定的証拠をつかまれるか、デビューまでは、このままで」
「アキがそうしたいならそれで良いけどさ。俺らだってさすがにフォロー出来るもんと出来ねぇもんがあるからな」
そう締めて、コーラのグラスから手を離し晶の頭をポンポンと叩いた。
「
「んー、オッさんはアキの相談役だからなぁ」
湖上も手を伸ばして1本取る。
「あれ? コガさんは違うんですか?」
章灯はすっかり炭酸の抜けたラムバックを飲んでいる。
「俺? 俺は親代わりつったろ」
そう言って、ぐいぐいとギネスを飲み、盛大にげっぷをする。
「晶君って、いろんな人に支えられてるんですねぇ」
明花は瓶についた水滴を指でなぞりながらしみじみと言う。
「先輩も支えてるんですか? 晶君のこと」
顔を上気させて、少し潤んだ瞳でじっと見つめる。
そんな瞳を見つめ返すことが出来ず、少しだけ視線を外す。髪の隙間から見えるピアスがかすかに揺れていた。
「俺は別に……何もしてないなぁ」
むしろ飯を食わせてもらっている。ということは何だかんだいって支えてもらってるのは俺の方なんじゃないのか。
「さーて、俺もちょっとアキのとこ行ってくるかなぁ……」
2人の間の微妙な空気を感じ取った湖上が、腰を上げる。
さすがに邪魔は出来ねぇなぁ、などと誰にも気付かれないように呟きながら。
「――ちょ、コガさん?」
ギネスを片手にカウンターへと向かう湖上の背中に問いかけてみるが、空いた手をひらひらと振るだけで返答はなかった。
視線を明花に戻すと、何やら憮然とした表情で腕を組んでいる。
「
おそるおそる問いかけると、明花は真正面から章灯を見据え、ゆっくりと頷いた。
「え? マジで? 俺、何かした……?」
慌てて手に持っていたグラスをテーブルへ置き、姿勢を正す。
「何もしてくれないからです!」
「は? どういうこと?」
「どうして普段はすっごく気が利くのに、こういうことには疎いんですか?」
店内のBGMがロックナンバーから、急に控えめなヴォリュームの『ムーンリバー』に変わる。
「えーっと、『ムーンリバー』流れたんで、そろそろお開きでーす!」
良く響き渡る声で貴田が叫ぶ。
どうやら『ムーンリバー』は終了の知らせらしい。なかなか粋なやり方で時間を知らせてくれるものだ。
テキパキとテーブルの上を片付け始めた面々が気になりつつも、それでもまだ腕を組んで怒りの表情を作っている明花から目が離せない。
『どうして普段はすっごく気が利くのに、こういうことには疎いんですか?』
明花の言葉が頭の中でこだまする。
ここまで言われて疎いままで言われるわけがない。
ここは、男らしく誘ってみるのが正解なんだろう。
据え膳食わぬは何とやら、と言うし……。
でも俺は、誘うほど、この子が好きなんだろうか?
向こうが迫ってきているから、というだけで持ち帰っちゃって良いのか?
ふと、乾燥機の中に入っていた白いブラジャーを思い出す。
まぁ、アキならここで食っちゃうんだろうな。
アイツはやっぱりすげぇわ。
そんで、俺は『お子ちゃま』だ。
いや、だから、お子ちゃまはお子ちゃまなりのやり方っつーもんがあってだな。
「汀さん、ここ出たら、ちょっとだけ時間くれない?」
そう言って立ち上がると、空になった瓶を持てるだけ持ってカウンターへ運ぶ。
章灯が片付けているのを見て、明花も慌てて席を立つ。しかし、意外と酔いは足にまで来ているようで、少しふらついている。カウンターから戻った章灯が肩を支えた。
「座ってな。汀さんの分まで俺がやるから」
明花を椅子に座らせ、残っている瓶やジョッキを片付ける。
ぐるりと店内を見回すと、あらかた片付いたようだ。
晶は長田と湖上に囲まれ、何やら話している。
アキはまっすぐ家に帰るんだろうか。
おそらくオッさんが送るんだろうな。
てことは俺も一緒に、って流れになるよな。
「アキ、お前この後まっすぐ帰るのか?」
いつもと同じテンションで話しかける。
きっと、さっきみたいに腫物に触るような扱いだと逆効果なのだ。いつものように、何もなかったかのように。そうすれば良い。
「はい、オッさんが送ってくれるそうです。汀さんもお送りしましょうか」
晶もすっかりいつも通りだ。もうふっきれたのか、それとも、演技なのか。
「えっと……、汀さんとちょっと話があるから、俺が送るよ」
「お? 何だよ、章灯。いよいよか?」
長田と肩を組んだ湖上がニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。
「いよいよじゃないです。俺にはやっぱり無理です」
「……据え膳はぁ?」
長田は不思議そうに首を傾げた。
「食った方が良いんでしょうけど、男としては」
それを言われると、弱い。
もし、明花の方がそのつもりだったとしたら、彼女に恥をかかせることにもなるかもしれない。だけど。
「だから、何とか据えられるのを阻止する方向で」
「もったいねぇなぁ、章灯。あの子、絶対お前に惚れてんのによ」
「別にアイドルとかでもねぇんだし、別に彼女とか作っても良いんだろ? アナウンサーなんて結婚してるやつだっているじゃねぇか」
と2人は口々に言う。
「そうかもしれないですけど……。でも、俺はそういう気持ちないんすよ。何か俺、思ってた以上に真面目だったみたいで」
章灯はそう言うと照れくさそうに頭を掻いた。
湖上と長田は不思議そうに顔を見合わせている。晶はそんな2人を見てやや呆れた顔をした。
「じゃ、お疲れさまでした!」
章灯は3人に向かって頭を下げると、マスターと談笑している
「汀さん、大丈夫? 歩ける?」
「先輩……。大丈夫です、歩けますよ……」
章灯が手を差し出すと明花はその手を取って、立ち上がった。やはりまだ足元はおぼつかないようだ。
「ブーツ、ヒールが低いやつで正解だな」
そう言って、明花の肩を抱く。
「ごめんな、さすがにそのスカートでおんぶは出来ないから」
「そんな、おんぶなんて、ほんとに。こちらこそ、すみません」
明花は申し訳なさそうに俯いた。
ゆっくりと店を出て、エレベーターに乗る。
気を聞かせたのか、たまたまか、店からは誰も出てこない。
2人きりでエレベーターに乗る。明花はすっかり章灯に身体をあずけていた。
外へ出ると、通りはイルミネーションがきらめいている。
「そう言えば、今日がクリスマスだったな、俺」
独り言のように呟くと、明花がぽつりと「そういや私も今日でした。でも、ケーキ食べてません」と漏らした。
「ケーキ、食うか?」
イルミネーションから明花に視線を移動させると、驚いたように目を見開いた後で、笑顔を作った。ぜひ、のサインだろう。
「でも、この時間だしなぁ。どこで食うかなぁ」
キョロキョロと辺りを見回すと、雰囲気の良いカフェが目に入る。
「クリスマスだけど、ホールじゃなくて良いよな?」
「もちろん、2人なのに食べ切れるわけないじゃないですか」
「ケーキ、まだ残ってれば良いけど」
そう呟きながら、カフェに向かって歩いた。
暖かい店内に入り、運よく残っていたガトーショコラとチーズケーキにノンカフェインのコーヒーを注文する。章灯はこの後、軽く仮眠を取って、『WAKE!』に出なければならない。冷静に考えれば、そもそも明花を持ち帰る時間的余裕などないのだった。
「メリークリスマス」
控えめにそう言って、運ばれて来たケーキにフォークを刺す。章灯はチーズケーキ、明花はガトーショコラだ。
「美味いか?」
問いかけると、明花はにっこりと笑って、一口分をフォークに刺し、章灯の口元へ運ぶ。
同じフォークなんだけど……と一瞬ひるんだが、さすがに目の前で拭うのも失礼だろうと、ここは乗ることにした。
「うま……。甘すぎないのが良いな」
お返しに、と、自分のケーキも明花に勧めてみる。しかし、自分が使っていたフォークはなぁ、と皿ごと明花の前に移動させた。
「私、気にしないのに」
くすくすと笑いながら、でも味移っちゃいますからね、と言ってペーパーナプキンで丁寧にフォークを拭うと、チーズケーキを一口分取る。
「あ、こっちも美味しい!」
2種類のケーキを味わった明花は満足そうな顔をしている。
こんなに機嫌の良い時に切り出して良いものだろうか。
そんな気持ちもあったが、かえってそっちの方が良いのかもしれない。
「あのさ……、汀さん」
ケーキの甘さをコーヒーで流し、明花を見つめる。
「もしかしたら俺の勘違いかもしれないけど。……だとしたら、酔ったおっさんの戯言とでも思って流してくれると助かるんだけど」
「……おっさんじゃないですよ、まだ」
明花もコーヒーを一口飲んで、じっと章灯を見つめた。
「俺、自分でも思ってる以上に鈍いやつみたいでさ。もしかして、汀さんの気持ちに気付いてなかったのかなって思ったんだけど……」
自分にしては珍しく、目を逸らさずに話せていると思う。明花の方でも、目を逸らさずにまっすぐに返してくる。
「後輩だからとか、そんなの抜きにしても、汀さんに手を出すつもりはないんだ」
「私のこと、そういう風には見られませんか?」
明花は少し瞳を潤ませて苦しそうな顔をした。
「良い年してこんなこと言うの恥ずかしいけどさ。後輩として、大事にしたいんだよ、汀さんのことは」
「先輩らしいですね」
瞳を潤ませたまま笑顔を作ると、表面張力を保っていた涙はその動きによって溢れ、頬を伝う。
「ごめん……」
明花は小さめの丸いボストンバッグからハンカチを取り出すと、頬に軽く押し付けて涙を吸い取らせた。
「良いんです。でも、私は先輩のこと大好きですから。先輩としても、男性としても。もうカミングアウトしちゃったんだから、ぐいぐい行きますよ、私」
うっすらと涙の跡が残る頬を赤く染めて、笑顔でそう宣言すると、「まずは、『さん』を取ってもらえるように頑張ります!」と顔の前で握りこぶしを作った。
「救われるよ、その明るさに」
章灯は切り替えの早さに軽く吹き出した。
「『さん』くらい、すぐに取ってやるから」
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