竹刀の温もり
精霊組合からの帰り道。帰りを共にしていた和葉が不意に千尋を振り返って、こう言った。
和葉は邪気との一戦で汚れ、破けてしまった服を組合で着替えてきた。自分の服ではなく、美里から好意で貰ったものである。タンクトップに、半袖の開襟シャツ。それにショートパンツを合わせたもので、カジュアルなスタイルながら、アイテムのひとつひとつはガーリーなデザインで、和葉によく似合っている。
「さっきの話。ちょっと考えてたんだけど、学校で竹刀渡すのは結構目立つだろうし、それに、まだ夏休み明けるまでかなり日があるから……今から、うちに来てくれない?」
それは、ちょうど組合支部の最寄り駅である横須賀中央駅の改札を通ったときに言われた。そのため、千尋はICカード乗車券を手に持ったままだった。そして、和葉の言葉に軽く衝撃を受けて、改札に通し終えたそれを服のポケットにしまうことを忘れてしまった。
「え?」
人々の往来の中で立ち止まり、千尋は数人の人とぶつかった。小声で、すみませんとぶつかってしまっ人たちに詫びながらも、千尋の思考はまとまらない。
ちょっと待て。うち来て、とはどういう意味か。文字通り先輩の家に、お宅に、お邪魔すると?
健全な高校生男子にとっては、大事である。なんせ、学校一の美少女の自宅に行くのだ。本人と、二人で。二人きりで。こんな大事件に対して動揺しないほど、千尋も男を捨ててはいない。
「どうしたの?」
和葉が不思議そうに瞬きしている。
千尋はパクパクと口を動かしたものの、声にならない。女の子の家なんて、生まれてから一度も行ったことがない。強いていえば、千歳ちゃんだろうか。だが、あそこは魁斗の家でもあるし、お互いの親が仲がいい時点で、俗に言う女の子の家には含まれないだろう。
ワタワタと挙動不審になっている千尋に、和葉は首を傾げるばかりだ。和葉にしてみれば、千尋は気弱で大人しい後輩という印象で、このように動じている姿は、おそらく今まで一度も見たことがない。だから、不思議でならなかった。
『竹刀を受け取りに行くだけだろう。慌てすぎだ、このチェリー』
「うわっ!」
どうにかこうにかホームまで辿り着いたところで、桜緋が呆れた様子を隠すことなく千尋の隣に顕現した。
「それより、桜緋がチェリーなんて言葉使うとは……ふふっ、意外ね」
「ふん。もっと直接的に言ってやってもいいが、千尋は所謂豆腐メンタルという奴だからな。少しオブラートに包んでやった」
なぜか不機嫌そうに答える桜緋に、和葉はクスリと笑う。
「そうじゃなくて。カタカナ語を使うのが意外って意味よ」
「言っておくが、本来カタカナはこの国独自のものだ。それを最近は西洋の言葉の発音に当てはめることが一般的になっているだけで、カタカナは日本の象徴だぞ」
『素直に婆臭いと思われたくなくて、常日頃から学んでいると言ったらどうだ?』
「貴様は黙っていろ、楓雅!」
こういうときに余計なことを言って怒られる、そんな不憫な役回りは言うまでもなく楓雅である。
「全く……」
「まあ、桜緋じゃないけど、確かに、そんな緊張する必要はないわよ。そもそも、いつも桜緋と一緒の藤原君が、そんなリアクションするなんて思わなかったわ」
「桜緋は、なんというか……また別というか……」
そう言いながら桜緋の方を見ると、桜緋は少し切なげな表情で千尋を見上げていた。少し怒っているようで、それでいて、いつも通りの余裕綽々とした態度を崩したくない。そして、胸の奥に隠した本音が瞳に映って、涙で少し潤んでいる。
こんな桜緋は見たことがなく、千尋はドキッとして視線を逸らす。
和葉もその空気に居心地の悪さを感じて、視線を宙に逸した。
混みあったホームで、三人のいるそこだけ微妙な空気が流れる中、隠形した楓雅が溜め息混じりに言った。
『電車、来るぞ』
***
そんなこんなで譲り受けた、和葉の竹刀である。
使い込まれて色の変わった柄を握り、千尋はふうっと息を吐き出した。そして、静かに瞼を落とした。
教室が結界に囲まれていても、屋外の物音は聞こえてくる。秋の大会シーズンや新人戦の時期を迎え、運動部はそれぞれ練習に熱が入っている。部員たちの掛け声やボールのバウンドする音、的に矢が刺さる音、ホイッスルの音。意識を集中させると、それらの合間に落ち葉が地面に落ちるときに立てる、カサリという乾いた音まで聞こえてくるようになるから、本当に不思議なものだ。
桜緋に言わせてみれば、霊圧が高まることによって五感が敏感になっているらしい。
「さあ、私の言ってきたことを意識して」
「うん」
「お前ならきっとできる。自分を信じて、落ち着いてやれば、きっと為せる」
桜緋に促されて、千尋は自分の内側に意識を向けた。
霊気というものは、自分そのものである。霊力を操るということは、自分を認識し、対峙することで、深く自分を知ることが必要なのだ。
瞼を閉じ、自分と向き合う。己とは何か。己の本質とは。己の意志とは。本音とは。己の起源は……
普通なら小難しい哲学かと思うようなことを、霊力を中心にするとすんなり考えられてしまう。桜緋は訓練を始めた最初の頃、千尋にこう言った。
「霊力を操ることと魂を解放することは、実はほぼ同義なんだ。簡単に言えば、自分を知って、自分に素直になる。そうすれば、霊力は自分のものになる。そして霊力の高い者は、比較的この行為に抵抗が少なく、すぐに慣れる。だから、祓い屋といった職が生まれたんだ」
お前も霊力はずば抜けて強いからな。きっとすぐにできるようになる。
そう言われて、早数ヶ月。未だに独力で成功した試しがない。きっと和葉は千尋よりもずっと早く、これを身につけたはずだ。こんなんで、自分は本当に、できるのだろうか。
そんな迷いや不安が、千尋の身体から零れる霊気にも顕れる。
「千尋、迷うな。霊気が乱れている」
霊気は感情や心に強く影響される。迷えば乱れ、さらに扱いにくくなる。修行中の者が陥りやすいスパイラルだ。
桜緋が注意しても、千尋の霊気は元の落ち着きを取り戻さない。桜緋は目を細め、惑う霊気を注視した。
千尋の周りに燐光が飛び交い、それらは主の心を表すかのように、震え、揺れ、彷徨っている。
桜緋は小さく溜め息をついた。
今日も駄目か。
仮にも意志を持って放出した霊気を、そのまま霧散させてしまったら、千尋の霊気の消費が激しくなる。ただでさえ、まだ力加減が下手なのだから、これを回収せずに放った日には貧血で倒れることは必至だ。よって、収集がつかなくなったときは、桜緋が放出された霊気を千尋に戻すようにしていた。
桜緋が手を貸そうと手を伸ばす。
その気配を感じたのか、目を閉じたままの千尋が声を上げた。
「待って!」
鋭い声に桜緋はぴたりと手を止めた。
千尋は額に汗を滲ませながら必死に桜緋を止めた。
「ごめん、もう少しだけ待って……」
浅く息を吸い、ハッと一気に吐き出す。
理由はわからない。根拠もない。けれど、直感で思った。もう少しなのだ。もう少しで、できる。
桜緋はしばらく空中で手を止めたままでいたが、しばらくすると手を引っ込め、千尋の様子を再び見守り始めた。
すると、千尋の霊気が動きを変えた。
ふわふわと無作為に待っていた燐光に統制が生まれ、構えられた竹刀に吸い寄せられていく。そして、それらが竹刀に吸い込まれた刹那、千尋がずっと閉じていた瞼を持ち上げた。
目の前にある、自らの霊気を帯びた竹刀を目にし、千尋はほっとしたように微笑んだ。
「……できた」
桜緋が軽く瞠目し、次いで優しく瞳を細める。
「頑張ったな」
特訓を始めて、およそ二ヶ月。初めて千尋が自らの霊力を操った瞬間だった。
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