9-6 彼女の『宝物』

 それから数日が経ち。


 貯蔵庫にあった保存食もあっという間に底を突いた。いよいよ買い出しに出なくてはならなくなったのである。


「弱ったな」


 彼はすっかり空になっている封筒を前に途方に暮れていた。封筒には母親の給与の三ヶ月分程の額が入っていたが、彼はそれを早々と使い切ってしまっていたのだ。


 彼の部屋は久しぶりに外出をして散財したあれやこれやで溢れている。以前から欲しかった高級な万年筆と上質の原稿用紙。それらがあれば作家になれると彼は思っていたのだ。

 それから、良い作品を書くためには資料が必要だと思って上等な革張りの専門書も買った。それに、長い時間座り続けても疲れない椅子と、新しい眼鏡。

 彼に言わせれば、これは未来の自分への投資というやつであり、必要経費なのである。


 ただ、彼は小説など書いたこともない。誰かが書いた物語を読んでは「俺ならもっと面白いものが書ける」と思っていただけだ。そして、いまも、ただの一枚も書いていなかった。


 封筒の金を見た時、真っ先に浮かんだのは「これで欲しかったものが気兼ねなく買える」だった。まさか金がすっかりなくなるとは思いもしなかったが、どうせ金庫の中には『宝物』とやらが入っているのだ。それを売りとばせばいいだろう、と高を括っていた。



 父母の部屋に入ると、カーテンを閉め切ったままのその室内はひんやりとしていて、何だか湿っぽい匂いがした。


 金庫さえ運び出してしまえば、こんな辛気臭い部屋に用などない。彼は用意した台車の上に何とか金庫を乗せると、それを自分の部屋に移動させた。その金庫は、そんなに大きいものではなかったが、重さは三十キロ程あり、乗せるのにも一苦労だったため、台車から下ろすことは断念した。


「さて、誕生日だったな」


 ぽつりと呟いて、扉についているダイヤルに触れた。金庫の扉には四桁の数字を合わせるダイヤルが四つあり、おそらく、二人の生年月日に合わせるのだろう、と思われた。

 両親の誕生日などもちろん覚えていなかったのだが、彼は居間に掛けてあるカレンダーに家族全員の誕生日の印がつけられていることを知っていた。その印は死んだ父親の分までつけられており、いちいち記念日だ何だと騒ぐ母親を疎ましく思っていたが、この時ばかりは感謝せざるを得なかった。


「簡単簡単」


 顔をほころばせ、両手をこすり合わせる。その傍らには痩せこけたシイナが虚ろな目でうずくまっていた。


 自信のない西暦の方は後回しにして、まずは誕生日から数字を合わせていく。西暦の方はだいたいこの辺りだろう、という目星をつけて回した。どうせずれたとしても前後二、三年といったところだろう。


「待ってろよ。金が入ったら、お前にも何か食わせてやるからな」


 ロッヂは舌なめずりをしながら何度も西暦を調整し、ニヤリとシイナを見た。シイナは弱弱しい声で「ナァオ」と鳴いた。


 何度目かの挑戦でやっとその扉は開き、ロッヂは嬉々とした表情で中に入っていた小箱と分厚い封筒を取り出した。小箱に入っていたのは、おそらく父からの贈り物であろう小さな宝石のついた古ぼけた指輪が数個と、父母の結婚指輪、桐の箱に入れられた臍の尾であった。


「何だよこれ。きったねぇなぁ」


 桐の箱を開けたロッヂは、期待の物が入っていなかったことに落胆し、適当に蓋を閉めると乱暴に金庫の中へ投げた。


「この指輪……売れるかな。売れるよな。まさか偽物なんて贈らねぇよな、親父」


 なぁ、と言ってシイナを見ると、彼女ははらはらと涙を零していた。


「うっわ、どうしたんだよお前。何かの病気か? 参ったな。病院に連れて行く金なんかねぇからな。どっかよその家に行けよ」


 ロッヂはいかにも面倒臭そうにそう言い放ち、シイナに向かって追っ払うように手を振った。


 彼はそんなことより、と呟きながら分厚い封筒をひっくり返す。ドサドサと中から出て来たのは大量の写真やアルバムである。


 シイナはロッヂの「くっそ! 金入ってねぇじゃねぇか! 何が宝物だあのババァ!」という言葉を背に、よろよろと彼の部屋を出た。



 シイナはもう何日も水以外のものを口にしていない。食べ物にありつくにはどこか違う家にもぐりこまなくてはならないだろう。シイナは建てつけの悪い窓の木枠を爪で引っ掻き、何とか開けようとしたが、その力も残されていないようだった。



***


「テナ、コーヒー飲む?」


 編み物に没頭していたところへ、プーヴァののんびりとした声が聞こえてきた。ちょうど何か飲みたかったところだと思い、「お願い」と言うと、キリの良いところまで編み上げて手を止めた。


 テナの返事を見越してコーヒーは準備してあったらしく、それは皿に盛ったクッキーとシュガーポットと共にトレイに載せられてすぐに運ばれてきた。

 プーヴァはテナの向かいに座り、コーヒーを一口飲んで、ふぅ、と息を吐く。


「ねぇ、テナ。あれからもうひと月だね」

「あれからって……、何かあったっけ」

「えぇー? もう忘れちゃったの? ほら、部屋に籠りきりの息子さんの……」

「あぁー、猫になりたいって言ってたお婆さんね」


 いたいた、そういえば、と歌うように言いながら、プーヴァの手作りクッキーを一口かじる。


「可愛い猫を養うために自立したか、あるいは……」

「あるいは?」


 プーヴァは首を傾げて、次の言葉を促す。


「猫を追い出して、お婆さんのお金やら何やらを独り占めしているか……」


 テナは何だか楽しそうにそう言うと、クッキーをまた一口かじった。


「テナはどっちだと思う?」


 プーヴァはテーブルに肘をつき、興味深げに身を乗り出した。


「そうねぇ……。まぁ、その息子とやらに会ったことがないから、推測だけど……」


 そう言って、プーヴァから少し視線を逸らし、ぷっと吹き出した。


「まぁ、後者じゃないかしら」

「テナもやっぱりそう思う? 実は僕も」

「だぁって、いくら子どものころに猫を世話したっていってもさ、それだって、ご飯を買うお金に不自由してなかったわけでしょ? 何なら、あのお婆さんのことだもの、ご飯は用意してたんじゃないかな。で、それを猫のところへ運ぶのが息子の仕事」

「あり得るね。母親の代わりに猫がいるってだけで自立できるんなら、父親が亡くなった時点でも何かしらの変化があったはずだし。それどころか悪化したんなら、もう何が起ころうと変わらないよね、きっと」

「そういうこと」


 テナはプーヴァの言葉に我が意を得たり、とでも言いたげな表情を浮かべ、まだ少し湯気の上がるコーヒーに、ポットの中の角砂糖を浸した。溶かすのではなく、充分にコーヒーを染み込ませたのを見計らって、それを口の中へ放る。


「でもさ、あのお婆さん、自由になれて良かったんじゃない? あのまま自分の一生を終えるんじゃなくてさ」

「そうだね」

「彼女の人生だもの。たとえ息子でもそれを邪魔する権利なんてないはずよ。誰か優しい人に拾われると良いなぁ」


 テナの視線がポットに注がれていることに気付いたプーヴァは、それを自分の方へ引き寄せ、思惑がばれてしまったと残念そうな顔をしている彼女に「最後だからね」と釘を刺してから、角砂糖を一つ渡した。


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