4-5 めでたし、めでたし
***
「ただいま、ナリー」
晴れやかな顔で帰宅したロロゴはキッチンに立つナリーに向かって声をかけた。
彼女は料理中だったようで、首だけを彼の方に向け「ごめんね、ちょっといま手が離せなくって」とだけ言うと、また作業に戻った。
ロロゴは良いよ良いよ、と言いながら、コートを脱ぎ、それをコートハンガーに掛けると、ソファに腰を下ろした。
何気なく、置きっぱなしになっていた新聞に目を通していると、トントンと包丁で何かを切っている音や、沸騰しているらしい鍋の中に何やら具材を投入する音までもが鮮明に聞こえてくる。
ロロゴは、成る程、これがあの魔女の言っていた『耳をよく聞こえるようにする薬』の作用なのだろう、と思った。吹雪いている屋外ではそれが近くの音なのか、遠くの音なのかがなかなか判別出来なかったのだ。
小さな音まで余計に聞こえてくるのは煩わしいが、まぁ、そのうち慣れるだろう。
「あら、この野菜、傷んでるわね……」
そんな声が聞こえてきた時、ロロゴは一瞬空耳かと思った。
しかし、どうやらそれはナリーの独り言だったようである。特に耳をそばだてなくても聞こえてしまうのだ。
いままでそんな独り言を呟きながら料理をしていたのだな、と何だか微笑ましく思いながら再度新聞に視線を落とす。
「やだ、こっちのお肉も腐ってるじゃない」
おいおい、そんなにダメな食材ばっかりなのかよ、と彼は苦笑した。
まぁ、しかし、傷んでしまったものは仕方がない。もったいないが捨てるしかないだろう。
「まぁ、いっか。アタシが食べるわけじゃないし」
彼は耳を疑った。
さすがに聞き間違いかと思ったが、何せ魔女の薬を飲んで『よく聞こえる耳』を手に入れたのである。まさか聞き間違いであるわけがない。
「あら、塩がちょっとだけ余っちゃったわ。新しいのを詰め替えたいし……。良いわよね、残り全部入れても。その分お砂糖入れれば中和されるだろうし。それに、アタシが食べるわけじゃないし」
ナリーは、途中、菓子やパンで腹を満たしながら料理を続けた。そして、何かある度に「アタシが食べるわけじゃないし」と呟いていた。
彼女はこれまでもずっとこうやって来たのだろう。
自分の食中毒も、なるべくしてなったのだ。自分のことが嫌いだとか憎いだとか、そんなことは一切言っていないから、悪気があってやっているのかはわからないが、これまで一口も食べなかったのは、不味いものを作っているという自覚が実はあったからだろう。
彼は愕然とした。
僕はこんな女のために自分の味覚を犠牲にしたのか……。
***
「べ、別にお世辞を言ってくれなくたって良いのに」
テナはそう言いながらも、まんざらでもない顔をしている。
向かいの席でコーヒーを飲んでいるプーヴァは、まさか、と言った。
「お世辞じゃないさ。だって、テナが僕のために作ってくれたんだよ? いままで君がキッチンに立ったところなんて僕は見たことがない。――まぁ、今回も作ってるところは残念ながら見られなかったわけだけど。でも、初めて作ったのに、ちゃんとチョコの味がした。これはすごいことだよ」
プーヴァはチョコレートが包まれていた包装紙を丁寧に丁寧に折り畳んだ。これは彼がヴァレンタインのラッピング用に買ってきたものの余りだろう。
「でもさ、テナ、チョコレートはどこから調達してきたの? まさか、街で買ってきたなんてことはないよね?」
「そんなの、貯蔵庫からいただいたに決まってるでしょ。あれはあたしが作ったものを売ったお金で買ったんだし、その権利はあるわよね?」
テナは得意気に胸を張ると、目の前のホットココアに口をつけた。
「貯蔵庫……。たくさん買ったから、減ったことに気付かなかったよ。でも、よく届いたね。チョコレートはいちばん上の段にしまっていたんだけど……」
「あたしが空を飛べることを忘れてない?」
「――ああ!」
プーヴァは口をあんぐりと開けて、テナの部屋の入り口に立てかけられているマァゴの箒を見た。
そうだ、テナはマァゴの箒を使えば空を飛べるんだった。
「わざわざそうまでして作ってくれたんだね……。何だか、なおさら美味しく感じてきたよ」
そう言って、胃の辺りを撫でる。
「もう作らないもん」
テナは赤い顔をして顔を背けた。
「ねぇ、プーヴァ。例えばさぁ、あたしでも料理ってうまくなる?」
「どうしたの? 急に」
「まぁ、プーヴァがいてくれる限り、作る気はないよ。ないんだけどさ。でも、あたしでも料理がうまくなるんだったら、あの男の人の恋人もきっとうまくなると思うんだよね」
真っ赤だった顔はいつもの色に戻ったが、テナはまだ顔を背けたままだ。背もたれに肘をつき、その上に顎を乗せている。
「なると思うよ。彼女が彼のことを本当に大切に思っていれば、美味しいものを食べさせたいと思うのは自然なことだし、そう思ったら少しずつでも自分の悪いところを直そうって思うはずだよ」
「そうだよね……」
でもあの人、薬飲んじゃったからなぁ……。
テナはちくちくと痛む右手の小指にはめられた指輪をなぞった。何となくだけれど、少しだけ痛みが和らいでいる気がする。お守りって偉大だわ、と思った。
テナのハチミツ色の髪はまたほんの少しだけ伸びた。
一体あといくつ年を取ればこの髪は肩に届くのだろう。それが待ち遠しくもあり、また、憂鬱でもある。年を取るたびに自分の顔にしわが刻まれていくのではないかと、何度も鏡をチェックした。けれど、そこにはつるりとした肌の少女の顔が映し出されているだけで、テナは安堵の息を漏らした。
そうして、テナは十七歳になった。
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