第百二十三幕 ~咆哮は因縁と共に~

「ソフィティーア様ッ!!」


 ラーラがソフィティーアを素早く背後に匿い、二人の周囲を屈強な聖近衛騎士たちが瞬時に取り囲んだ。

 一方オリビアたちの反応は────。


「閣下ッ!! アシュトンが! アシュトンが!」

「うん。わかっているけど少し落ち着いて」

「おのれええええっ!!」


 剣を抜き放ち、獣に向かおうとするクラウディアに、オリビアは怒声を上げた。


「クラウディアッ!!」

「止めないでくださいッ!!」

「戦ってもクラウディアでは勝てない!」

「ですがアシュトンの仇をッ!!」

「アシュトンならきっと大丈夫」


 クラウディアを安心させるかのように、オリビアは優しく言った。


「……なぜそう思われるのです。あの高さから落ちたのですよ」


 クラウディアは疑心に満ちた眼をオリビアに向けている。オリビアはアシュトンが落ちていった方向に視線を向けた。


「勘、としか言えないけど……あれでアシュトンは運がいい。クラウディアの気持ちもわかるけど、ここは私に任せて。──みんなもソフィティーア様を守ってあげて。私のことは心配しなくていいから」


 冷静に言って弓を投げ捨てたオリビアは、漆黒の剣を抜き放つ。どうやらオリビアはあの獣にひとりで立ち向かうつもりらしい。己の身が死にさらされているにもかかわらず、ソフィティーアは女神シトレシアの導きに感謝した。


「ソフィティーア様、大した時間稼ぎにならないかもしれませんがオリビアが戦うつもりのようです。今のうち我々は引きましょう」


 ラーラの進言に、しかしソフィティーアは首を横に振った。


「それはなりません」

「なぜですかッ!!」

「オリビアさんの剣技をこの目で見る絶好の機会です。もしかしたら魔術を使うかもしれません」

「それは、それはそうかもしれませんがあの獣は危険すぎます」


 ラーラは油断なく獣を見据えながら言う。


「知っています。あれは魔獣ノルフェスですよね」


 ソフィティーアは平然と言った。

 赤黒とした長い体毛。そして、頬まで裂けた口から頭に向かって二本の巨大な牙が曲線を描きながら伸びている。危険害獣二種に属するノルフェスは人間と同じ二足歩行ができる獣であり、巨大な鉤爪を最大の武器とする。

 ひとひとりの力でどうにかなる相手ではないが、


「知っているならなおさら私に従ってください。御身を守ることが私の使命なのですから」

「もちろんわたくしに危険が及ぶと判断したら遠慮なく魔法を使いなさい。ラーラさんが傍にいてくれるからこそ、安心してこの状況を観察できるのです」

「……わかりました。絶対に私のそばから離れないでください」


 ラーラはノルフェスに向けて左手をかざす。

 魔法を使えることを知らないであろうオリビアの従者たちは剣を抜かないラーラに不可解な表情を覗かせるも、オリビアがひとりでノルフェスと対峙することそれ自体に不安を抱いている様子はなかった。


(あの魔獣を前にしてもなおオリビアさんの力を信じているといったところですか……。ではわたくしも信じてオリビアさんの戦いを括目しましょう)


 魔獣ノルフェスを前にして、ソフィティーアは艶やかな微笑を浮かべた。


△▼△


 地鳴りのような足音を響かせたノルフェスはなにかを探しているかのように周囲を見渡す。そして、オリビアの姿を捉えた途端、空気を激しく震わす咆哮を上げた。


(あのときの獣か……)


 オリビアが目の前のノルフェスと対峙するのはこれが初めてではない。神国メキア出身の人間と旅をしている道中襲われたオリビアは、逆にノルフェスを返り討ちにした。その証拠にノルフェスの左目は漆黒の剣で斬りつけたあとが深く残っている。


 当時はまだ子供だったので逃げるノルフェスにとどめを刺さなかったオリビアだが、どうやら様子を見る限り再戦を望んでいるらしい。

 すっかり大人になったらしく、オリビアの首元くらいの大きさだったのが、今では二倍以上に成長している。


 ノルフェスは黄ばんだ鋭利な歯をガチガチと鳴らしながらこちらとの距離を徐々に縮めてくる。地面を蹴り上げたオリビアが俊足術を発動し、横腹に向けて剣を流すも、ノルフェスは巨大な三本爪を器用に使い受け止めてきた。直後、もう一方の腕から伸ばされた鉤爪がオリビアの顔面に迫りくる。オリビアは体を半回転させて攻撃をかわし、そのままノルフェスの背中に向けて強力な後ろ蹴りを放った。


「グルアアアッ!!」


 ノルフェスは前のめりになりながらも倒れることはなかった。激しい息遣いが次第に収まると、ゆっくりと振り向いたノルフェスは、空に向かって咆哮を上げた。その様子にソフィティーアを守る聖近衛騎士団が必死で盾と剣を構える姿が視界に入ってくる。視線を横にずらすと、クラウディアたちも緊張した面持ちで武器を掲げながらオリビアを見つめていた。

 オリビアは軽く頷き、視線をノルフェスへと戻す。


(──戦意を失った様子はない。それどころかさらに増している)


 オリビアがそう予想した通り、ノルフェスは再び距離を縮めてくる。さっきと違うのは足の運びに慎重さが増している点だ。ノルフェスは獣の中でも知性が高い。つまり学習能力が高いということである。

 同じ攻撃は二度通じないと思っていいだろう。そういう意味では〝大地の覇者〟と呼ばれているらしい一角獣よりもよっぽど面倒な獣だとオリビアは認識している。


 再び俊足術を発動させたオリビアは、今度は大地を左右に蹴りつけながら徐々にノルフェスへと迫る。ノルフェスは足の動きを止めて、両腕を左右に大きく伸ばす。大きな緑色の眼はオリビアを捉えようと激しい動きを見せていた。


(そろそろ頃合いかな?)


 オリビアは一度だけ緩急をつけてノルフェスの反応を一瞬遅らせることに成功する。すかさず地面を右足で蹴りつけ、ノルフェスの視界の外へ出たと確信したオリビアは、さらに全身のバネを使って上空へと跳躍する。


「グルアアアアアアアアアッ!!」


 完全にオリビアを見失ったノルフェスは、地面をやたらめったらに踏み鳴らしながら三度みたび咆哮を上げていた。

 オリビアは空中で剣を構え直すと、直下のノルフェスに向けて叩きつけるように振り下ろす。オリビアが地面に着地したときには、血飛沫を噴き上げて左右に胴体が泣き別れるノルフェスの姿があった────。



「オリビアおねえ様ッ!」


 駆け寄ってきたエリスが剣を鞘に収めているオリビアに抱きついてきた。


「あの魔獣ノルフェスを単騎で仕留めるとは……」


 エヴァンシンはノルフェスの死体を覗き込みながら感嘆の声を漏らす。


「閣下……」


 暗い顔で近づいてくるクラウディアへ、オリビアは励ますように声をかけた。


「うん。アシュトンを探しに行かないとね」


 沈痛な表情を浮かべている一同の下に、ラーラと聖近衛騎士団を伴ったソフィティーアが近づいてくる。聖近衛騎士団が畏怖の眼をオリビアに向けてくる中、ソフィティーアが静かに声をかけてきた。


「オリビアさん、お見事でした。──これからアシュトンさんを捜しに行かれるのですね」

「うん。アシュトンは大事だから」


 オリビアがそう言うと、ソフィティーアは瞼を伏せ、しばらく沈黙したのちに口を開いた。


「川に落ちたのならそのまま下流に流されている可能性は高いです。こちらからも捜索隊を派遣いたしましょう」

「ありがとう」


 頷いたソフィティーアは聖騎士団に手早く指示を出し、ラ・シャイム城に使いを走らせた。クラウディアたちもアシュトンを捜索するための話し合いを始めている。


 ────雨が降ってくる。


 空を見上げるとさっきまで青かった空は黒々とした雲が広がりつつある。オリビアはアシュトンが落ちた崖へと向かった。


(必ず見つけてあげるからね)


 オリビアは眼下に広がる川をしばらくの間眺めていた。

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