第60話:フィクションにおける「無知」の扱い方
フィクションの中で、登場人物の「無知」を正確に表現するというのはかなり難しいのではないだろうか。読者によって「これは知っていて当然」「知らなくても無理はない」という許容範囲が異なるため、正確さの匙加減を定めきれない。さらに、時代や環境によって常識が異なる。
こんなことを考えたのは、以前、ある小説のエピソードを読んだ際にちょっとした議論になったことを思い出したからである。
その小説の中では「区民図書館」の存在をまったく知らなかった、という女学生が登場する。日本ならどの小学校や中学校においても必ず「図書室」があるはずだし、「図書館」が大抵どこの市でも区でもあるのは当然である。例えば、アフリカの何とか地区から転校してきた女子なら知らないかもしれないが、そうした設定はなしでいきなりである。これは無理があるよな~、と感想を書いたら反論が来た。
要約すると以下のような内容である。
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・「クミントショカン」を知らない女の子もいるような気がします
・料理学校で「魚をオロシてください」と言われてまな板からテーブルへ魚を下ろしたり、お米を洗剤で洗ったという女の子もいるらしいです
・今の世の中は何処までが現実で何処からがフィクションなのかよく判らないようなところがあって、まさに事実は小説より奇なりです
↓
実はこのやり取りがあったのは2004年で、それから10年以上も経っている。だから「区民図書館」を知らない女の子という存在をリアルに感じられるかどうか、というのは微妙なところだが、社会全体の流れとしては「いても不思議でない」という方向へ進んでいるのは確かである。
たとえば、昨今の誘拐犯は、脅迫に使っている携帯やスマホの番号から所有者を割り出されて、警察に捕まるケースが少なくないのだという。「脅迫用」に用意したのではなく、普段から使っているものをそのまま使うことが珍しくないらしい。アホか、と普通の人間は思うかもしれないし、「かえってその方がリアルだな」と思うかもしれないし、「これが現代日本の現実だ!」と興奮するかもしれない。
もう一つ思い出した。村上龍の「昭和歌謡大全集」では、じゃんけんで物事を決める前に、「じゃんけんの練習をする」という描写があった。じゃんけんは偶然なので、いくら練習しても意味がないのだが、やる本人は真剣なのである。これは一種のギャグとして面白い。しかし、現実にはこういうレベルの人間が本当に増えているのだとすると、以前はナンセンスな冗談だったことが、現実そのものになってしまう。そうなるとますます、どこまでが無知か、書き手にとっては定めがたくなってくる。
生活、経済、教育、知識、判断力の格差が今後ますます広がるものとすれば、現代の日本を舞台にする場合、最初に「常識」「無知」のレベルを多層的かつ緻密に設定する必要が出てくるのかもしれない。
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