第51話:小説の見えにくい「良さ」
この「創作論のメモ」の第一回目で取り上げた松浦理英子の「最愛の子ども」は、実際に読んでみると大変ユニークな小説であった。たとえば語り手が、よくある「私」「僕」「あたし」などではなく「わたしたち」という複数形になっていたり、事実なのか空想なのか、よい意味で曖昧な状態が維持されていたりで、久々に小説を読みながらしみじみと面白さを感じることができた。
この作品の中で「特に印象的」「とりわけ感銘を受けた」という訳でもない、ちょっとした部分があって「文春オンライン」の著者インタビューでも触れられていたので、紹介してみたい。
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――「苑子最強」で思わず笑ったように、会話がすごく楽しいですよね。思えばこれまでの作品も会話が楽しくて。
松浦:自分でも楽しんで書いています。今回私が気に入っているのは、美織の家に4人の同級生が集まって、セックスに関して「新しい嗜好、新しいプレイなんてもう見つけられないのかな」と誰かがいうと、「がんばって見つけてよ。見つけたら教えてね」というところ。「見つけたら教えてね」がとても気に入ってますね(笑)。
――親の蔵書のエロティック・アートの画集や写真集を眺めながらあけすけな会話をするところですね(笑)。大人びてユーモアたっぷりで。
http://bunshun.jp/articles/-/2312?page=4
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この「見つけたら教えてね」という箇所は自分も読んでいてやや「いいなあ」と思ったのだが、ごく些細な心の動きだったので、ほとんど忘れかけていた。しかし著者自らが「とても気に入っていますね」と言っているのを読むと何だか嬉しい(ちなみにこの小説は配役を考えたくなってくる面のある小説でもあって、そちらでも実は著者と一致した点があり、さらに嬉しい)。
こうした些細な部分の「良さ」というものは、修行したり勉強したりすることで書けるようになるものではないし、そもそもなぜこれが良いのか、言葉ではうまく分析できない。ところが、多くの人が読み過ごすであろう「見つけたら教えてね」という、ほんのひと言に反応する人間が、この世に二人は確実にいるのである。
人工知能が小説を書けるようになるかもしれない未来は、すぐそこまで来ているのかどうか、ちょっと判断しかねるが、こうした微小な「良さ」を執筆プログラムが拾いきれるものかどうか、そのあたりにはまだまだ疑問が残る。語り手を「わたしたち」にしようという発想、真偽が不明の場面が頻繁に現れる点、そして「見つけたら教えてね」という微妙な台詞の良さ、このあたりの創造はやはりまだ人間の領域に属している。
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