第42話:描写と時間経過

 描写の匙加減が難しい、という話を前々回に書いた。


 逆噴射聡一郎という人が、noteに「パルプ小説の書き方」という連載を持っていて、「(8):いらないものは書かなくていい」という回で、ちょうど描写について述べていたので紹介してみたい。


 https://diehardtales.com/n/n4c5c453c9fb1


「顔の描写すら要らない事も多い。たいていの場合、名前だけで十分だ。なぜなら読み手はそのキャラクターの行動や言動、立ち振る舞いからおおまかなイメージを読み取り自然に脳に投影していくからだ。読者は勝ち気なふるまいの奴からは勝ち気な顔を想像するし、腰抜けを見れば腰抜けの顔を想像する。体型とか体格とかを軽く書いておけば、読者はあほではないので勝手に想像する。だから読者を信じて任せろ。美女であることを強調したいなら、どんなタイプの美女かを書いておけばじゅうぶんだ。冷たいのか。おおらかなのか。均整がとれてるのか。それともワイルドなのか。そんな程度でいい。」


 要は「全部」を書こうとするな、ごく一部のポイントだけを書けばよいという教えである。

 それはよく理解できる。全部を書ききれないので、そうせざるを得ない。

 この少し先まで読むと、冗長な描写にも効果があるケースとして以下のような指摘があった。こちらの方に刺激を受けた。


「山の景色がどうとか森の深さの描写がどうとか、木陰の暗さのグラデーションがどうとか、そういうものが全くの不要物であり無意味だと切って捨てるつもりはおれにはない。それは、さっき少し触れたこと・・・わざと描写の足し算を使う場合だ。タランティーノのような尺のコントロールだ。」


「どういうことか? ひとつひとつの描写を長く書くことによって、文字数のボリュームを増やし、適度に読み手にダルさを味わわせ、結果として時間の経過の感覚を表現するという寸法だ。」


「つまり、場合によっては、つらねた文字数の多さそのもので長い時間の経過を味わわせるということも有効な時があるのだ。ダークタワーの1巻でもローランドは死にそうになりながらザリガニ浜辺を延々歩いたりしていた気がするが、あれもそれなりに長い描写が必要だったのだ。」


 なるほど、長い描写そのものが、読者に読む時間と手間を強いることで、作中の「時間の経過の感覚」を与えるのだ。


 これは実に想定外で、自分は掌編ばかり書いているせいか、という場合にまでは考えが到らなかった。


 今後も、もう少し描写については考えてみたい。



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