第35話:発言の後の書き方の傾向
この「創作論のメモ」は、厳密に何かを調査して書いている訳ではないので、いつも気楽に書いている。よって読者の皆さんからもお気楽に読まれたい。
で、最近になって気づいたことだが、台詞(発言)の後に「と言った」「と何々した」と書くのはやや古臭い書き方らしい。
例えば、いま手元にある山本周五郎や丸谷才一の本をパラパラめくると「会話文(発言)」の直後は、かなり律儀に「と」が来ている。
と云った。
と言ふ。
と質問する。
などが頻繁に出てくる。会話の続く場面では、1ページに2つや3つではなくて、それよりも多い。
ところが、もっと年齢的に若い綿谷りさの場合(これもたまたま手元にある)はどうかと思ってパラパラと見てみると、驚くべきことに「発言」の直後に「と」が来ている例がほとんどない。
「いなか、の、すとーかー」という会話の多い中編で数えてみたら、全体で2箇所しかない(p.22、98)。
これは意図してそう書いているとしか思えないのだが、今はそれが標準なのだろうか。話者が指定されていなくても、誰の発言であるかがまったく混乱せずにスーッと読めるので、個人的には綿谷先生の書き方の方に軍配を上げたくなる。
もう一つ、「発言」の真下に地の文を書くケースと、行分けしてから地の文を書くケースがある。
例を挙げると、こういう風である。
↓
「これが例文だよ!」と、佐藤先輩が叫んだ。
「なるほどです!」と僕はうなずきながら言った。
↑
この場合は、一行の中に「発言」と地の文がつながっている。こういう書き方はライトノベルでも割とよくあるらしい。
これが続くケースもある。
↓
「え?」と弟がいった。
「なんでもない」と僕は嗄れた声でいった。「眠れよ、早く」
「寒くない?」と弟は少し黙っていてから遠慮ぶかくいった。「風が吹きこんで来るだろ」
↑
これは大江健三郎の「芽むしり 仔撃ち」の一節で、一行の中に地の文と、二回目の発言があって、そこで改行するという独特のリズムがある。
ここ以外にも同じ行は同じ話者、という形が頻繁に出てくる(山本周五郎もよく用いる)。
ちなみに自分の場合、「発言」があれば、次の地の文はほぼ必ず改行している。
他の方法を細かく検討して決めたわけではなく、何となく読みやすそうに思えるからという、ただそれだけである(綿谷りさも常にそうしている)。
では他の作家はどうかと思って、手元にあった堀江敏幸「燃焼のための習作」を見ると、これは全ての「発言」に括弧をつけないというケースで、発言の前後で行分けもしないという、ちょっと特殊な例である。少なくともエンタメ系の作家はこういう書き方はほぼしないだろう。
同じ堀江敏幸の「雪沼とその周辺」の場合は、「発言」直後の改行と、改行せずに続ける書き方が同じ短編内で混ざって使われている。
↓
「わかるか」と彼は妻にたずねた。
「わからないわ」
「似てるんだ、ハイオクさんの音に。あの人が投げたあとに降ってきたのは、こういう音なんだよ」
妻に説明しながら(以下略)
↑
こうなるとどっちの書き方なのか、分けることができない。
規則性がないのだが、さほど不自然でもないので大抵の人はルールの混在に気付かないのではないだろうか。
冒頭に書いたように、今回は特に調査した訳ではなくて、手元にある本をパラパラ眺めて書いただけである。しかし意外なほど様々なパターンがあるので、何かのご参考になれば幸いである。
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