3-2 結婚から始まる恋愛

「これが婚姻届。もうお姉ちゃんの記入は済んでいるから、後は柊くんが残りの部分を書いてくれれば完成という事になるね」

 大真面目な顔をした先輩が机に置いた紙には、紛れも無い『婚姻届』の文字が記されていた。本物に見覚えがない以上、正式な書類なのかどうか確信はないが、少なくとも、一見して明らかに偽物だと言えるようなものではない。

「……えっと、すいません、先輩。話が全く見えないんですけれど」

「あれ、説明していなかったかい?」

「説明していなかったです」

「そうか、それは悪い事をしたね。私も少し焦っていたらしい」

 まったりと寛いだ表情で、先輩はそんな謝罪を口にする。

「柊くんがお姉ちゃんと結婚すると、私が柊くんの義妹になるだろう」

「……ああ、はい、なるほど」

 皆まで言わずに終わった説明だけで、先輩の言いたい事はわかってしまった。

「後は俺が先輩の友達と付き合えば、『義妹の友達』と付き合えるって事ですね」

「そういう事。どうかな、我ながら完璧なロジックだと思うんだけど」

 表情をほとんど動かさず、それでいて先輩の声だけがわずかに高くなって響く。どうやら機嫌がいいようで、それは至極結構なのだが。

「それって、不倫にならないですかね?」

 色々と気になるところがあるが、とりあえず、結婚相手(予定)である先輩のお姉さんの前で堂々と他の女と付き合う計画を立てるというのはどうなのだろう。

「君は倫理観なんて気にするようなタマじゃないだろう」

「俺が気にしなくても、お姉さんの事もありますし」

「それも大丈夫だよ。幸い、お姉ちゃんも気にしないと言ってくれている」

 先輩の言葉に視線を移すと、お姉さんは俯いていた首の位置を、更に少し前に倒した。

「そもそも、お姉さんは俺と結婚してもいいんですか? 俺、財力無いですよ」

「そこそこなイケメンがこんな私なんかと結婚してくれるなんて、そんな上手い話を断るわけない。いくら不倫をしてくれても我慢できるし、もし騙されてても、百万円くらいまでなら夢見料として払えるよ」

 抑えたような低い声、それでも妙に通る冗談は、先輩のお姉さんの口からのものだった。

「またまた、そんなにおだててくれなくても」

「……おだててないよ?」

 上目遣いのお姉さんの瞳は、童の純粋さをもって俺を貫く。

「お姉ちゃんはね、自己評価がすごく低いんだ」

「違うよ、私はとっても正しい。私は花火じゃないんだから」

 俺の戸惑いを見抜いたのか、先輩のフォローの言葉はお姉さんに隠すでもなく、当の本人はそれに首を横に振る。

「花火はかわいいし、頭もいいけど、私は違う。二人がお似合いかどうかはよくわかんないけど、私にとってはそこのそこそこイケメン君はもったいないもの」

「どうせそこまで言うなら、そこそこを取ってもらえないものでしょうか」

「それはダメ。私はとっても厳密で正しいから、おまけはできない。生意気でごめんね」

「いや、謝らないでください。こっちこそ調子乗ってました」

 丁重に頭を下げるお姉さんに、俺も頭を下げ返す。

 どうにも変わった人だが、自己評価が低いという先輩の言葉の意味は良くわかった。

「それで、どうかな、結婚? 見ての通り、お姉ちゃんは乗り気のようだけど」

「選択権はそこそこイケメン君にあるから。私は、どっちでも従うよ」

「えっと……まぁ、ぶっちゃけ時間稼ぎなんですけど、その呼び方をどうにかしませんか? そこそこイケメン君だと、他のそこそこイケメンが出てきた時に紛らわしいですし」

「うん、そうだよね、私みたいなのと急に結婚しろなんて言われても困るよね。五年くらいならキープにしといてくれて全然OKだから、急がないでいいよ。そこから先は、そもそも私が生きてる保証がないけど」

「これツッコんでいいやつですか? 下手な事言って、本気で病気だとかだったら取り返しが付かなくなりそうで怖いんですけど」

 冗談混じりの提案に、冗談で返された。のだとは思うが、万一があるので一応確認。

「大丈夫、お姉ちゃんは命に関わるような病気を抱えてはいないよ」

 まぁ、本人に冗談のつもりは無いだろうけど、なんて小声の補足が、先ほどまでとは別の不安を駆り立てる。会って間も無いが、お姉さんがかなりネガティブな人なのだろうという事は、十分過ぎるほどよくわかってしまっていた。

「呼び方の話だけど、花火と同じで『柊くん』でいいのかな?」

「構いませんけど、結婚する前提で話を進めるなら、名前の方がいいんですかね?」

 正直なところ、まだ先輩のお姉さんと結婚するという話を受け入れられているわけではなく、先輩やお姉さんがどこまで本気で言っているのかも半信半疑だ。だが、仮に冗談だと、いや、十中八九そうなのだろうが、だとしてもノリというものは大事だろう。

「……えっと、下の名前はなんだっけ?」

「弘人くんだよ。そうなると、私は、ひろ兄と呼ばせてもらう事になるのかな」

「呼びたいなら止めませんよ、俺は」

「それなら、遠慮なく呼ばせてもらうよ。ひろ兄っ」

 悪戯っぽく笑う先輩の声が、妙にくすぐったく背中を撫でる。

「じゃあ、私は『弘人くん』でいい?」

 真剣な面持ちのお姉さんに名前を呼ばれるのも、それはそれで若干照れくさい。

「呼び方も決まったところで、いよいよ答えを聞くとしようか」

「いや、一応、俺からお姉さんの呼び方も決めません? 『お姉さん』で通すと、先輩基準な感じが強くて先輩が義妹な感じが出ない気がしますし」

 俺としては至極真っ当な提案であり、むしろその前で話を切る方が不自然だと思ったのだが、しかし言葉を終えた時、わずかに空気が重くなったように感じられた。

「……名前、で呼ぶのが順当だよね、やっぱり」

「まぁ、そうですかね。苗字だと先輩と被るのもありますし」

「だよね、うん……私の名前は、そこに書いてあるよ」

 お姉さんの指差した先には、件の婚姻届。妻の欄に書かれた名前に目を移しながら、俺は先輩が家に入る前に口にした忠告を思い出していた。

「月代、万華鏡さんですか」

 漢字をそのままに読んでみるも、訂正は無い。代わりに、肯定も無かった。

「……変な名前だよね。私にお似合いの、変な名前だよ」

 お姉さん、万華鏡さんと呼ぶべきなのかもしれないが、初対面に過ぎない俺には、彼女の細かい感情の機微はわからない。だが、今の一瞬だけは、何も俺に限らず誰にでもわかるくらい、万華鏡さんは負の感情を思いっきり表に出していた。

「弘人くんも、こんな変な名前の女と結婚しようだなんて思わないよね。いや、馴れ馴れしく弘人くんなんて呼ばれるのも嫌だよね、ごめんね」

「いや、だから謝らなくても。別に気になりませんから」

「気を使わなくっていいよ。プリクラ撮る時に、《弘人with万華鏡in結婚一周年》なんて書くのは滑稽だと思うよね?」

「なんですか、その限定的なシチュエーション」

 声色こそ変わらないものの、万華鏡さんの顔は、分厚い影が落ちたかのように重く沈んでいた。そんな状態でも美人を保っているのは、むしろ素晴らしい事なのだろうが。

「とにかく、俺は気にしませんよ。お姉さんが気になるなら、名前じゃなくて他の呼び方でもいいですけど」

「……そう? ……じゃあ、とりあえず、ツッキーって呼んでもらえる?」

「えっ、はい、ツッキーですね」

 やはり自分の名前に思うところがあるのか、万華鏡さん、いや、ツッキーの口にした呼び名は(多分)苗字をもじったものだった。それはまたそれで、公の場で呼ぶのには恥ずかしさがあるのではないかとも思うのだが。

「よし。それじゃあ、呼び方も決まったところで、本題に入ろうか」

「本題と言うと、ツッキーとの結婚ですか」

 心なしか先輩が急かすように催促してくるも、あの程度の時間で、まだ俺の考えが纏まっているわけもない。

「大体、俺はまだ結婚できる年じゃないのでは?」

「まぁ、細かい法律なんかは、どうでもいいじゃないか。事実婚という言葉もあるわけだし、要はひろ兄がお姉ちゃんを妻、私を妹だと思えればいいんだよ」

「それはまた、随分と強引な」

「こう言ってはなんだけど、多少強引な手段でも使わなければ、実妹のいないひろ兄が妹の友達と付き合うなんて事は無理だと思うよ」

 先輩の言葉は耳に痛い。つまり、正論ではあった。

「ちょっと待ってください、少し考える時間をもらってもいいですかね?」

「もちろん。私は、あくまでひろ兄に一つの選択肢を提案しただけだからね」

「私も、弘人くんに結婚を強要するつもりも、そんな権利も無いよ」

 率直な時間稼ぎは、案外すんなりと姉妹に受けてもらえた。考えてみれば、元々が俺の為に考えてくれた案なのだから、向こうがそれを強いるわけもないのかもしれないが。

「それじゃあ、時間もちょうどいいし、お昼にでもしようか」

 話を切り替えた先輩の言葉通り、壁の時計は十二時を少し過ぎた辺りを指していた。

「それは、俺もご一緒しても?」

「そのつもりだったけど、嫌かな? どうせなら、お姉ちゃんの料理の腕を見ていってもらおうかと思ったんだけれど」

「なんで花火は、私の泣き所を弘人くんに見せようとするの?」

「何言ってるんだい、お姉ちゃんは料理上手いじゃないか」

 正反対の事を口にする二人は、だが俺の目には仲睦まじい姉妹に見えた。

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