memories:カルフォルニア・ポピー



 キーボードを叩く音。カップとソーサーの振れる音。伸びをする度に軋む身体の音。それらが静かな部屋にやけに響く。前は気にも留めていなかった音までもがなんだか気になり、集中できない日が続いていた。ただ、佑貴という存在がいなくなっただけだというのに。

 弟の同級生、友達。弟が家を出たあとも家へ遊びに来ては花を愛で、私にとても懐いてくれていた、そんな存在。

 ───もう、うちには来ないで。

 そう人伝に告げたあの日から、佑貴にはもう会ってはいない。

佑貴が来ないといって会わなかった暫くと、告げて会わなくなった暫くはなんだか違うような気がする。同じ会えない時間なのに何が違うというのだろう。

 いつになれば来るだろうと、何処か期待するようにそわそわしていたあの気持ちと、もう来ることはないとわかっているこの気持ち。……そう、佑貴はもうここには来ない。だって私がそういったのだから。もう来ないでと、告げたのだから。佑貴のことだ、そう告げられたからにはきっとうちには来れないだろう。私の言葉に逆らってまで行動的にはなれないだろうから。

 あの日、街中で人込みに紛れ見つけた佑貴の隣にいたのは可愛い女の子だった。それが弟の彼女だったとわかっても、そんな事実は今となってはどうでもいい。ただ、佑貴の隣には同年代の子が合っている、その事実がどうしようもなく現実だった。佑貴が私のことを好きだと思っていたとしても、それはきっと、一時の気の迷いで、いつか佑貴の隣には可愛らしい同年代の女の子の姿があることだろう。そんな未来が見えた気がして、私は、───逃げたんだ。

 歳の差や世間体、常識。一般論で自分の気持ちを抑え込み、佑貴の気持ちを否定し続けてきた。抑え込んできた自分の気持ちもそれがどんなものだったのか、それに向き合うことすらしないでここまで来て、突きつけられた現実から私は何もかも投げ捨て、ただ逃げた。

 ほらやっぱり、物語のような展開を夢見たところで、ただ自分に酔ってただけなんじゃない。自分の勘違いが恥ずかしくなって逃げたんでしょ。

 そう、囁いて来る誰かの声を振り払うようにキーボードを激しく叩く。

 チラッと頭を過る佑貴の顔を思い出しては唇をきつく噛む。

 ……後悔、してるんだろうか。

 何に───?

「あぁ、もうっ!」

 ちっとも集中できやしない。

 PCの画面にはさっきから書いては消してを繰り替えしている一向に進む気配のない文字列が並んでいる。

「もう休憩、休憩しよ」

 髪を乱暴に掻き揚げて、キッチンへ向かう。

 何か甘い物でも口にすれば気も紛れるでしょう。

 戸棚、冷蔵庫と目的もなく漁っていればピンポンとドアチャイムが鳴った。誰が来たのだろうとインターホンを覗けば、そこに映し出されたのは弟の姿だった。

「え、……何、どうしたの。インターホンなんて押さなくても鍵あるでしょ」

 インターホン越しにそう告げれば「まぁ、そうなんだけどさ」と陸は歯切れ悪く告げながら、暫くして自らの鍵で中へ入ってきた。

「姉ちゃん、久しぶり」

 部屋の入り口に立ち、何故かバツが悪そうに告げた陸は、それ以上何もいおうとしないし、中に入ろうともしない。そんな弟の姿に漸くなんとなく察した。

 そうして口重そうに開いた言葉は

「───あのさ、この前夏目に会ったんだろ」

 やっぱりそうだった。

「あぁ、衣鶴ちゃんでしょ。あんな可愛い彼女がいるとか私知らなかったんだけど。陸も隅に置けないわね」

 戸棚から適当にお菓子を取り出し、紅茶を2人分入れる。それをもと居た机に運び「陸も飲むでしょ」と声を掛けるが、陸は小さく首を横に振った。そうして、何処か言葉を探すように「夏目から話は聞いた」、そう言葉を紡いだ。

「俺へのプレゼント一緒に選んでくれてたって。だけどそれと佑貴がこの家に来ないようにってのとは別に関係ないだろ」

「そうね、関係ないわ。衣鶴ちゃんと一緒にいる佑貴君の姿を見て良い機会だと思ったのよ。そもそも弟がもういないこの家に弟の友達が遊びに来るのも変な話じゃない。それにうちの植物を他所の子の見てもらう義理もないでしょ。大切な時間をうちに来ることに使うよりもお友達や同世代の彼女と一緒に過ごすことに使う方がよっぽど佑貴君のためになると思っただけよ」

 私なにか間違ってるかしら。

 真っ直ぐ陸を見つめ淡々と告げれば、弟は奥歯を強く噛み締めた後、小さく息を吸った。

「佑貴の気持ちわかってて、それは卑怯なんじゃない?」

 強い眼差しは真っすぐ私を刺してくる。「なんのこと?」、と惚けようとして、でも陸の眼差しからはなんだか逃げられなくて私はお腹の奥にぐっと力を入れた。

「───勘違い、でしょ。小さい頃から傍にいたから憧憬を恋心と勘違いしてるんでしょ。思春期によくある話よね。それにそれって陸に関係のない話よね?」

「そうかもしれないけど───ならどうして」

 どうして、そんな苦しそうな顔してるんだよ。

 何処か泣きそうな〝弟の顔〟をした陸がそこにいた。

「なに、いってるのよ」

「……姉ちゃん、いい加減物分かりのいい大人の振りするのやめたら? そんな器用でもないでしょ。言いたいことちゃんと言いなよ。俺、姉ちゃんがそういう顔するのも、……親友がうじうじしてるのも好きじゃないんだよね」

 不意に何処か悪戯っ子のような笑みを浮かべると、陸は後ろを向き、扉の死角へ声を掛け始めた。やがて手を伸ばし、引っ張り出されたのは……鉢植えを抱えた佑貴、だった。

「なんで……」

「もうずっとひとん家の玄関の前で何十分の立ち往生する姿なんて見飽きたんだよね」

 いい加減、お互いちゃんと向き合えばいいと思うよ。

 そういって陸は佑貴の背中をぽんっと押すと、俺は言いたいこと言ったからもう帰るね、そう告げ私と佑貴だけをこの部屋に残して本当に帰ってしまった。

 背中を押された勢いで一歩踏み出した佑貴は、バランスを戻すと、そのまま下を向いて立ちつくしていた。私もなにも言葉が出て来なくて、ただただこの沈黙が苦しくて仕方ない。泳ぐ眼が行き場をなくして、佑貴が抱える鉢植えを捉えた。

 オレンジ色のポピーに似た花がしっかりと上を向いて開いている。これもまた、佑貴が種から育てたものなんだろうか。

 ぼうっとその花に目を向けていると不意に、あのっ、と小さな声が聞こえた気がした。

 ふと目線を上げれば、パクパクと金魚のように口を開閉する佑貴がいた。何度かそうした後、ぐっと唇をきつく閉じ、植木鉢を前に突き出すと漸く口を開いた。

「これ、カルフォルニア・ポピーっていうんです。この花が咲いたらお姉さんに逢いに来ようと思っていました。でも、玄関まで来てもいつもそこから進む勇気がでなくて。花ももう幾つも枯れて、次咲いたら絶対って思うのに咲く度玄関までくるとそこからどうにも動けなくなって。それで、見かねた陸が今日ここまで引っ張って来てくれました」

 一呼吸置いて「来るなといわれていたのに来てしまってごめんなさい」そういって佑貴は頭を下げた。

「僕がここに来るのは迷惑、ですか?」

「……さっき言ったこと聞いてたんでしょ? ここに来る時間を他のことに使った方が有意義でしょう」

「お姉さんが嫌なら僕もう来ませんから」

「だから佑貴君にとって───」

「そうじゃなくて僕は、お姉さんにとって迷惑かどうかって聞いてるんです」

 ───それ以上の言葉を失った。つまり、佑貴のことをどう想っているのか。そういう対象として見ているかどうか。逃げてきた、ツケ、なんだろうか。逃げ道なんてものもう用意なんてしてくれなくて、彼は今ここで答えを出せといっている。

 言葉に詰まっていると、佑貴が小さく笑った。

「僕、ここで過ごす時間が好きなんです。その時間は僕にとって決して無駄な時間だとは思いません。ここで花の世話をするのもただ僕が花が好きでしていることですから。だから、他意とかないですから」

 ───お姉さんが迷惑ならもう来ないです。

 穏やかに微笑む佑貴の瞳の奥が僅かに揺れていた。

「私は───」

 ごめんね。ごめんね。

 何度もそう心の中で謝った。

「迷惑、じゃないわ」

 私はどこまでこの子の優しさに甘えているんだろう。

 生暖かい水から、まだ抜け出せないでいる。



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