memories:ムラサキツユクサ



 普段の私ならそんなこと絶対にしなかった。

 その日は気まぐれに、そう、なんだか何となく。授業中、机の左隅にシャーペンで小さな丸を書いてみた。完成した少し歪な丸に、なんだか自分が重なって消してしまうのも可哀想な気がして、そのまま私は学校を後にした。

 そして次の日、まだ誰も来ていない教室の自分の席を見て私は唖然とした。みれば、あの歪な丸は綺麗な花へと一躍変貌を遂げていたのだ。

 3枚の小さな花弁、その中央には6つの雄しべと雌しべが。その花に寄り添うように細長い葉が描かれている。全体的に陰影もつけられていて、素人目にもその上手さに息を呑む。

 私の書いた丸は三花弁の1つとして使われていた。

 そんなつもりもなかったあの歪な丸がこんな風になるなんて──。

「……きれい」

 思わず漏れ出た言葉に口を押えて辺りを見渡した。

 普段、「風紀の乱れは秩序の乱れ」なんていって風紀委員をしているくせに、なにやってるんだ。私自ら風紀を乱すなんて。

 いきり立って消しゴムを手にするも、この綺麗な花を消してしまうのが忍びなくて、

『とても綺麗だと思います』

 そう小さく花の傍に書くと

「今日だけだからね」

 誰に言い訳するわけでもなく呟いて、誰にも気づかれないようさり気なく花を隠すように授業を受けその日は帰宅した。

 そしてまた次の日、誰よりも先に登校した私は自分の机の前で「あっ」と思わず漏らしてしまった。

 ──書き込みが、増えていたのだ。

 あの花の傍に書いたメッセージの更に隣に

『ありがとうございます。ムラサキツユクサのつもりです』

 少し角ばった字でそう書かれていた。

 思わず周りを見渡す。……誰もまだ来ていない。ということは、これは夜に書かれた物なのだろうか。我が校では夜間学級もあるらしい。もしかしてこの教室が使われていて、たまたま私の席を使っている人が花を描いて返事をしてくれたんだろうか。

 なんだか胸の奥が熱くなる。

 それでも、机に落書きをするのは良くないこと。本来の自分の意に反することだ。

 遣り切れない思いを抱きながらその綺麗なムラサキツユクサと自分の書いた言葉、そして誰かの書いた言葉を消しゴムで消した。その代わり、「ほんとにこれが最後だから」そう呟いて椅子の方に向かう矢印を書くと小さく『中、見て』と添えた。

 昨日買ったばかりの真新しいA6のノートを鞄から取り出すと1頁目に綺麗な絵を消してしまって申し訳ないと思うこと、でも落書きは風紀委員としての自分の意に反することを書くと机の中にしまった。

「はぁ。何やってんだろう」

 こんなことをしたって、その人がまたこの席に座るとは限らない。ノートだって読んでくれるとは限らない。こんなことするなんて、私どうかしてるんじゃないの。

 そう思いつつも、「これは自己満足だからっ」そう言い訳しながら何処か期待している自分がいる。

 そして次の日。落ち着かない心持でそっとノートを開いた。

「えっ」

 そこには勝手に落書きをしてしまったことに対する謝罪と、あの私が書いた丸を見ていてそれを使って花が描きたくなったこと、絵を褒めてくれたことがとても嬉しかったのだということがあの角ばった字で書いてあった。

 それがなんだか嬉しいような、照れくさいような。私は緩む唇をきつく噛んで、すぐさまペンを走らせた。

 そうして私はそれをきっかけに顔も知らないその人と、このノートで交換日記を始めた。

 何気ない会話を綴っていく中でいくつか分かったことがある。この〝彼〟はどうやら私よりも年上で、絵を描くのが好きらしい。特に花の絵が好きで、道端で見たのだと時折描かれる花達は相変わらず上手くて、毎回圧倒される。

 彼の紡ぐ言葉はとても優しくて、名前も顔も素性すら知らないというのに、いや、だからだろうか。ついつい話し過ぎてしまう。

 よく見るという理由だけでとある先輩の風紀担当にされてしまったこと。よく遇うと思っていたのは私が無意識にその先輩を探してしまっていたからだということ。だけど先輩には好きな人がいてこの想いは報われることはないのだということ。

 そんな私の溢してしまった言葉達ひとつひとつに彼は丁寧に応えてくれる。

『貴女が素敵な人なのは僕には伝わっています』

『報われなくてもその想いは決して無駄にはなりません』

『貴女は魅力的な人です、自信を持って』

 その羅列は陳腐な響きかもしれない。でも、何度も消された後を見付けてこの人が真剣に私の話を聞いて応えようとしてくれているのが分かる。その気持ちが凄く嬉しい。

 いつの間にか最後の1頁になってしまったノートを懐かしむようにぺらぺらと遡り、ふと始めに書かれた彼の言葉が目に留まる。

『あの丸を見たとき、もしやこの人はとても頑張り過ぎているんじゃないかと思ったんです。それでも凛と立つ続ける姿が思い浮かんで、その姿はとても綺麗だと思いました。だから、そんな貴女にあの花を贈りたかったんです』

 なんだか泣きそうになる程胸の奥がキュッとなる。

 ペンを取り、

『貴方みたいな人を好きになればよかったのに』

 そうノートに書き綴ってそっと机の中に忍ばせた。

 どんな返事が返ってくるだろうか。まだ先輩への想いは消えないでいる。それでももし次に好きになるのなら彼のような優しい人がいいと思う。彼はこの言葉をどう捉えるんだろうか。調子に乗り過ぎただろうか。

 ぐるぐる巡る頭で早足で玄関まで来て、あっ、と私は小さく声を漏らした。

「体操服、忘れた」

 柄にもなく自分であんなことを書いてしまったからか、どうやら無意識に動揺していたらしい。

 はぁ。

 大きく息を漏らすと、踵を返し、夕焼けに赤く染まる廊下を小さくキュッキュとシューズで踏みならしながら教室に向かう。到着するや否や閉められた扉を横に開くと、「え?」と声が漏れた。

 窓際、一番後ろ、その私の席の前で立っている人影があった。その人物が扉の開く音と共に手に持っていた何かをそっと私の机の中に隠すのが見えた気がした。

「どうかしましたか」

 カツカツと靴を鳴らしながら近づくその男の姿を今一度捉える。

「……う、植田先生……」

 それは美術の植田空だった。

 普段と変わらない柔らかな立ち振る舞いなのに何処か言われもない圧を感じて、

「あ、あの、体操服、忘れてしまって」

 私は少しどもりながら答え、先生の横を素早く通り過ぎ自分の机に駆け寄ると、机の横にかけていた体操服の入った袋を手に取る。

 机の中をちらっと確認してから

「……先生こそ、ここでなにされてるんですか?」

 窺う様にそう問うた。

「私はもう生徒が残ってないかの見回りですよ」

 あれ。

 そう答えた先生からはさっきまでの言われもない圧は感じられなかった。私の勘違いだったんだろうか、そう思うとなんだか決まりが悪くて

「では先生、さようなら」

 逃げるように教室を飛び出した。

「外はもう暗いですから気を付けて帰ってくださいね」

 そう後ろから掛けてくる先生の心配の声も、一杯一杯中の私の耳にはより遠くに聞こえる。

 普段置き勉なんてしないから、あの時チラッと覗いた机の中には例のノートしか入っていなかった。

 ということはあのとき植田先生が読んできたのはあのノート。たまたま私の机から落ちちゃってとか。いや、確かに彼の絵の上手さは美術教師なら当然だし、もしかして先生が彼だったんだろうかとか。

 まさか。もしかして。いやそんな。

 先生があの人なのかそうじゃなかろうがどっちにしろ、

「あれ読まれたとか、もう、明日からどんな顔して植田先生に遇えばいいのっ」

 そんな想いが交差して今まで綴ってきた自分の言葉達を思い返しては、やり場のないこの想いを蹴散らすように家までの帰路を私は駆けた。



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