第十章 恋する勇気

辛くて甘い過去

 


 それは天恵だった。


 真琴は、今もそう思っている。





 二年前。真琴が十三歳の頃の話である。



「どうしよう…!どうしよう…!」



 夕暮れの教室で独り、真琴は慄いた。


 溢れ出た涙が、股下の飼育ゲージに垂れ落ちていく。


 飼育ゲージに……。


 流したところでどうにもならないのに、涙は止め処なく流れてゆく。


 何と無駄な生体現象か。真琴は心底自分が嫌になった。


 いや、真琴はずっと前から自分が嫌いだった。


 自己主張が苦手な自分が嫌いだった。


 軍人であった祖父の威光に応えなければと、躍起になればなるほど、そのプレッシャーに挫ける自分が嫌いだった。


 ”気にする事はないよ”と祖父自身や両親、兄に言われても出来なかった。


 つい周囲の目を気にしてしまう。


 不必要な程に感受性が高い自分が、真琴は、大嫌いだった。




(どうしよう…!何処にもいない…!みんな、可愛がってたのに…!どうしよう…みんなに…みんなに……!)



 真琴は、さめざめと、泣いた。


 時間が、真琴の涙を無駄に消費させ、無慈悲に過ぎていく。



 …………。




「明日は〜母さんが〜百点取ったご褒美にオモチャとゲーム買ってくれる〜!ラララ〜〜!」



 突然、変てこな歌声と共に教室のドアが開いた。真琴はびくりとドアに目を遣った。



「…あれ?やっぱり神宮寺さんだ!」



 そして、真琴の涙で滲む視線の先に、は現れた。



「僕、持久力の鍛錬に陸上部の先輩達とグラウンド走ってたらさ、教室に人影が見えたから、あれっ?って思って来てみたんだよね!」



 焦げ茶色の髪をしたジャージ姿の少年が、熱を帯びた息を吐いて、真琴を見て笑っていた。


 真琴はその少年を知っている。


 正確には、


 三日前、猪苗代の中学校へと転入してきた真琴の、クラスメイトとなった少年。


 真琴の右隣の、そのまた右隣の席の少年。


 いつも笑顔の、優しい少年。



椎名しいな…くん…?」



 真琴は、椎名 時緒しいな ときおの性をたどたどしい唇で紡ぐ。


 また、涙がこぼれ落ちた。




「……どうかした……?」



 笑顔を少し、ほんの少し曇らせて、時緒は真琴へと歩み寄る。


 校舎内をおぼろげに流れる、吹奏楽部が奏でる音色が、何処か寂しげに聞こえた。




 ****




「ゲージの…掃除をしていたの……。そうしたら…ハムスターたち…何処かに…いなくなっちゃって…、ずっと…探して…いなくて…、ぅう…」



 藁にもすがる思いで、真琴は涙の訳を時緒に話してみた。


 生き物の気配のない飼育ゲージを見つめる時緒。もう笑顔ではない。しかめ面だ。



「ごめんなさい…ごめんなさい…!」



 真琴は絶望した。


 きっと時緒は、真琴がハムスターを逃してしまった事を怒っているのだろう。そう思った。


 もし、この事を時緒がクラスメイトたちに言いふらしたら……。


 転入前の、帝都東京の学校で、些細なミスが原因でクラス全員から冷酷なイジメを受けたとある女学生の顛末を思い出し、恐怖した真琴は必死で時緒に頭を下げ、謝り続けた。



「ごめんなさい…ごめ…、」

「しっ!ごめん!静かに…!」



 真琴の謝罪を、人差し指を口元に添えた時緒が遮る。


 見れば時緒は、真琴の祖父が大好きな時代劇に登場する侍のような鋭い眼差しで教室中を見渡していた。



「し…椎名…くん?」

「…聞こえる…。奴等は近くにいる…!」

「え……?」

「…こちらを伺っている…!」



 すると、時緒は足音一つ立てずに教卓へと近づいた。


 真琴の素人目でも分かる、一切の無駄のない動きだ。


 ……。



「多少悪知恵は付けたようだけど!こちとら鍛えてるんだよ!舐めるなァ!!」



 そう躍起に叫びながら、時緒は教卓の引出しへ両手を突っ込んだ。



「居たァ!!引出しの裏側だ!三匹並んでへばりついてた!これは誰も分からない!」

「ぇ……!?」



 してやったり。そんな顔で時緒は歓喜すると、何かを両手で包みながら真琴のもとへと戻ってきた。


 そして、真琴の目の前でゆっくりと両手を開いて見せた。



「あぁ…!」時緒の手の中を見て、真琴は驚きと安堵が入り混じった声をあげてしまう。



「ハムシン、ハムダン、ハムゴウ!こいつら性悪なんだ…!脱走したのも一度や二度じゃない…!神宮寺さんだけじゃない!クラス全員こいつらの脱走に泣きを見てたんだ!」



 自身の手の中でもぞもぞ動く三匹のハムスターを恨めしい目で見下ろしながら、時緒は「なんて奴等だ!」と苦言を漏らす。


 見事ハムスターたちを見つけてみせた時緒に真琴は感謝半分、唖然としてしまう。



「椎名…くん?どうやって…?」

「…夏休みに母さんと大喧嘩して家出してさ……磐梯山の森の中で二週間……獣同然の生活をして身につけた技さ……!」

「へ…!?」

「お陰で半径五〇メートル圏内の獣の気配なら手に取るみたいに分かるようになった!」

「……」



 ぽかんと呆気に取られる真琴の前で、時緒はハムスター達をゲージへと収監するとーー



「…やった!お疲れ様だったね神宮寺さん!もう大丈夫!!」


 眩しい太陽のような笑顔で真琴にピースサインを作って見せた。



「わ、わた…し…」

「こんな夕暮れまで一人で探してたんだね!凄いな神宮寺さんは! 」

「……」

「 でも…もし困ってたら、遠慮せずに言って頂戴! 」

「 え…… 」

「神宮寺さんは一人じゃないよ!神宮寺さんは…もう僕達の…僕の友達なんだから!」



 今、たった今。


 真琴の胸の中で何かが、ぱちりと音を立てて弾けた。


 肉体的なものではない。精神的ななにかだ。


 真琴の心の奥の奥。硬く凝り固まった何かが弾けて崩れ落ちたのだ。



「ぁあ…!」



 その感覚が痛くて。


 苦しくて。


 嬉しくて。


 愛おしくて。


 真琴はまた泣いた。声を上げて泣いた。安心して泣いた。嬉しくて泣いた。





『どうした!?陸上部員おまえらぁ!?まるで箱根を一人で走り切ったが如く疲労困ぱいではないかぁ!?何!?乱入してきた椎名 時緒のペースに合わせて走っただぁ!?馬鹿者ぉ!!あいつは規格外だから相手にするなと口を酸っぱくして言ったろぉ!?…プライド!?そんなもの捨てろ!!死ぬぞ!?)



 校庭から陸上部顧問の悲痛な叫びが聞こえてきたが、今の真琴にはどうでも良かった。





 真琴は今、生まれて初めて、異性に恋をしたのだから。





 ****





「ん…?」



 天井に昇った湯気が雫となり、ぽたりと背中に落ちた感触で、真琴は今自身が風呂に入っていた事を自己確認する。



(懐かしい…なぁ…)



 鼻下まで湯舟に浸かりながら、真琴は笑う。


 あの日、時緒と初めて話した日。


 それは、まさしく天恵であった。


 他所から見れば、”いなくなったハムスターを一緒に探しただけ”と取れるだろう。


 だが真琴にとっては、凝り固まった過去の自分を、自念にしばられていた真琴自身を覚醒せしめた”夜明けの鐘”だった。


 前に進む勇気、決して孤独ではない希望を与えてくれたのが。



(椎名くんだったんだ…)



 真琴は鼻の下まで湯船に浸かり、恋の火照りを湯で誤魔化した。



「真琴ぉ…、良い加減風呂代わってくれぇ〜!さぶい…!さぶいよぉ〜…!」



 脱衣所の扉越しに男の情けない声が聞こえる。



 今年、一浪の末に華の大学生となった、真琴の兄、耕太こうたの声だ。



「ん…ごめんお兄ちゃん。…今上がるから…」

「すまん〜!巻きでお願いします!巻きで!」





 ****




『ばばんばばんばんば〜〜ん!!』



 風呂場から聞こえる、上機嫌な兄の下手くそな歌声を背に受けながら、パジャマ姿の真琴は居間の戸を開ける。



「かっかっかっ!そら落ちろ!落ちてしまえ!」



 居間では祖父の喜八郎きはちろう炬燵こたつに下半身を埋めながら、テレビの中のコメディアンに快活な野次を飛ばしている。


 そんな祖父の姿が可笑しくて、真琴もつい笑ってしまう。



「ねえ?おじいちゃん?」

「ん?どうした真琴?お前もミカン食うか?」

「ううん、もう歯磨いちゃったし…」

「あ〜…歯磨いた後ミカン食べると、滅茶苦茶酸っぱく感じるからの!かっかっかっ!」



 何が笑いのツボを刺激したのか、大笑いする喜八郎に真琴は引き目に苦笑しながらーー



「おじいちゃん…、私は勝てるかな…?」



 ふと、思ったことを口にしてみる。



「勝てるとは…、何にかの?」



 喜八郎のにやけた目に微かな鋭さが光った。


 真琴は思考する。


 およそ三時間程前の事。


 椎名邸で出会った、亜麻色の髪の少女の事。

 彼女が何者なのか、真琴には分からない。名を聞く前に仰天して逃げてしまったから。


 しかし。だがしかし。


 真琴の女としての勘が。


 これまで時緒に導かれて来た真琴の恋心が理由不明の警鐘を発する。



 ”あの女は真琴おまえの好敵手だ”と…!




「のう真琴?勝てるとは何にじゃ?」

「おっぱいの大きな別嬪さん」



 やや自嘲気味に真琴は答えてみた。


 すると、喜八郎は、



「でかいおっぱいか…!難敵じゃのう!」



 と、腕を組み唸りだした。


 堪らず、真琴はまた笑ってしまう。



「冗談だよおじいちゃん。クラスの男の子たちがグラビアアイドルに夢中だから、対抗心を燃やしただけ」



 湯気で曇った眼鏡をパジャマの袖で軽く拭きながら本心を隠し、真琴は喜八郎へ手を振る。



「おやすみなさい、おじいちゃん。火の用心ね」

「おやすみ真琴。風邪ひかんようにな」



 戸を閉めて、真琴は真っ直ぐ前を見る。


 時緒のように。


 現実から目を逸らさないように。


 ただ真っ直ぐ、廊下の闇を睨む。



(椎名くん…私…もう逃げないよ…!もう…逃げないよ!)




 




 真琴のシルエットを廊下の闇に映し残して、戸が閉まった。


 氷風呂へ落下するコメディアンの悲鳴と石油ストーブ上のヤカンの沸騰音が居間を支配する。



「成る程のお…」



 その中で独り、喜八郎は満面邪悪な笑みを浮かべた。



「 恨むぞぉ〜…!時緒とやら!」




 ****




 真琴の自室に置かれた携帯端末が起動する。

 メッセージアプリの通知が来たからだ。


 端末の液晶画面には、読み易い大きなゴシック文字でこう記されていたのだった。




【トッキー:こんばんは時緒です!夜遅くごめんなさい!


 新しいお友達が出来ました!つきましてはその人を紹介したいと思います!


 お手隙でしたら明後日、午後二時に丹野神社の境内に集合願います!ヨロシク!!】



 …………。


 ……。



【いおりん:行くー!】

【佳奈ブン:新しいオトモダチー!行く行く!!】


 ……。


【りっちゃん:待ってる。茶は出してやるが茶菓子は各自持参な?】


 ……。


【まさやん:よりにもよってあいつん家…(汗)まあいい行ってやる。俺様に感謝するべし!】


 ……。

 ……。

 ……。

 ……。






【真琴:行きます!楽しみにしてますね!】






 続く

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