第116話 轍鮒の急 1
ゆったりした大きなソファーに腰を下ろし、緊張の糸が途切れたような大きなため息を漏らした。
テーブルにはミントの酸味の効いた香りの漂う冷たい飲み物が置かれてあり、空調の効いた快適な室温の部屋、快適この上ない空間であった。
床から天井まで届く一枚のガラスで作られた窓から、夜になって輝きを増すバロシャムの街の光が見える。
アリードには、これほどの高さの建物に登る事は初めての経験であり、人が砂粒ほどにしか見えない高さとガラスでできた壁の部屋で眠る事に不安を覚えてたじろいでいたが、ファティマとの会見を終え、張り詰めていた緊張をほぐしてくれる快適な部屋にくつろがずにはいられなかった。
「首尾は上々と言った所か……」
多くの実務的問題は残っていると言っても、最高責任者であるファティマの了解を取り付けれたのだ。ひとまずの課題はクリアーできたと言ってもいい。
しかし、新たな民族の軋轢が待ち構えていた。
「……しかし、エルル族か」
ファティマの話したエルル族の話をアリードは聞いたことも無かった。
今のエルル族たちも、自分たちの民族の特徴と成り立ちにそんな逸話があったとは知ってはいないだろう。
存在するのかも分からないイブリースの眷属を従わせる目を持っていると言われても、彼らはどうする事も出来ない。そんな不確かな理由で、彼らを弾圧するなど、アル・シャザードの独裁政権にも劣る。
しかし、ティムシャムの地下には、シャムという不可思議な存在がいたことも確かだった。
「ダメだ……。ラーイカに相談するしかないか」
いくら考えても答えの出ない事を放り出すように、ソファーの背もたれに体を預けた。
彼女の名を口にした途端、ファティマの手のひらを相手に向ける奇妙な動作が頭をよぎる。
それは、来夏が不可思議な力を使う時に見せる動作によく似ている気がした。
バロシャムのファティマ、ティムシャムのシャム、来夏、そして、ジャハンナ。
それらに繋がりがあるのだろうか?
バロシャムには、約束の地ジャンナという言葉もある。
天国も地獄も似たようなものか……。
(いつか空を見上げれば、ミャヒナに会えるのかもな……)
未来都市に迷い込んでしまったかのようなバロシャムの幻想的な雰囲気がアリードをこの世ならぬ不可思議なものたちの思考へと誘う。
グラスの中で溶ける氷の小気味良い音に、いつしか、眠りの中へ誘われるように。
「アリード! 大変です!」
突然部屋に入って来た兵士の声に、たたき起こされた。
「何事だ!」
慌てて跳び起きたアリードに負けぬくらい、兵士は慌てた様子だった。
「ニュースを、ニュースを見てください!」
言われるままに端末を操作すると、繰り返し流されていたと思しき演説の最中のアメルフォドアの大統領が映し出される。
「国家の国土とは、不可侵であらなければならない! 我々はイズラヘイムの建国の理念を支持して来た。よって、エルシャムヘイムは、イズラヘイムの固有の領土である!」
「……なっ、んだって……」
思いもよらぬ事態に言葉を詰まらせた。
いや、大国連合が同盟国のイズラヘイムを支援するのは当然の事、エルシャムヘイム奪還に向けて軍事行動を起こすなら、それを支援するだろうとは予測していたが、まさか、交渉の最中に、イズラヘイムの決定を待たずして先に宣言するなど思ってもいなかった。
エルシャムヘイムの遺跡は、バロシャムと砂の国の国境に広がる砂漠に位置するが、その砂漠の西端はイズラヘイムに接している。
国境で軍隊を突き合わせている両国が、この宣言に対して恣意的行動をとれば、誰にも押し留める事が出来なくなるまで、事態が悪化するであろう。
「ファティマに会いに行くぞ」
勇んでファティマの神殿に向かったアリードだったが、「ファティマ様には、お会いになる事は出来ません」と、一辺倒の返事で追い返された。
「いつなら会えるんだ! 一刻も早く、ファティマの見解を聞かなければ……」
(いや、会わないという事が、彼女の答えなのか?)
イズラヘイムが先手を取って大国連合に働きかけ、アメルフォドアに宣言を出させたとも判断できる。バロシャムとしては、それを見過ごすわけにもいかない。
彼らに交渉のテーブルに着く意思を示してもらわねば、これまでの長い旅も振出しに戻ってしまう。そういう話だ。
「イズラヘイムへ戻るぞ」
それがアリードの下した決断だった。
「よろしかったのですか、ファティマ様」
「彼には、自らの力で、この難局を乗り切り、イブリースの眷属を抑える力になる事を示してもらわねばなりません」
「あの者にその役目果たせるでしょうか」
「力及ばぬ時には、邪悪な瞳を持つ民ともども、滅びるのがさだめ……ですが、わたくしの目の見通せぬ英雄の力を、今は、信じましょう……」
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