第60話 お帰り
入院してから十日も過ぎた頃から、夏は起き上がれるまで回復していた。
退院真近となった今でも、まだ点滴ははずせていない。
細い脚に、ずっと打たれた針。
それを見るだけで、善次郎の胸は、いつも締め付けられる。
だが、その針から滴る薬が、夏の命の炎を消さず、起き上がれるまでに回復させてくれたのだ。
あの日、大口の受注が取れたときから、善次郎は毎日、見舞いにきていた。
といっても、いつも診療終了時間の間際だったので、10分も居てやれれば良いほうだった。
入院してから一週間は、起き上がれる状態ではなく、ずっと横たわっていた。
夏を担ぎ込んだ日、善次郎たちが先生に呼ばれて診療室に入ったとき、夏が起き上がったのは、よほど気力を振り絞ったに違いない。
一週間を過ぎた頃から、夏は徐々に元気を取り戻しはじめた。
そして、今日、あと数日で退院できると言われた。
死の淵からの生還。
よく、頑張ったな。
善次郎は、夏の生命力に感謝し、先生の尽力に感謝し、夏を励まし支えてくれた美千代と洋平に感謝し、ちょくちょく見舞いに訪れてくれた、木島さんち菊池さんに感謝した。
家に帰ると、活が、いつになくそわそわしている。
偉いものだ。
もう直ぐ夏が帰ってくると、活にもわかっているのだろう。
「また、みんなで暮らせるぞ」
ベッドの中で、活に話しかける。
活はなにも答えず、黙って目を閉じている。
心なしか、活の顔が和んでいるように、善次郎には見えた。
善次郎たちが、木曜日に見舞いに行ったとき、明日にでも退院できると言われた。
「あなたは、会社を休むわけにはいかないでしょうから、土曜日にしましょうか」
美千代に言われた。
「大丈夫、有休を取るから」
善次郎は即座に答えた。
一日でも早く、夏を家に帰したかったのもあるが、善次郎も、少しでも早く、夏と暮らしたかったのだ。
「仕事を休んでも、大丈夫なの?」
美千代が、心配そうな顔をした。
これまで善次郎は、有休はおろか、病欠すらしたことがない。
善次郎が勤めている会社は、中堅どころではあるが、そんなに大きくはない。
有休があるといっても、おいそれと気軽に取れるような状態ではないのだ。
それを知っているから、善次郎の立場が悪くなりはしないかと、美千代が心配したのだ。
「一日くらい、問題はないよ」
笑って答えた善次郎だが、この時、善次郎はある決意をしていた。
それは、まだ、美千代には話していない。
その日、家に帰ってから、善次郎は寝つけなかった。
美千代と洋平も同じだったようだ。
夜中の二時頃、玄関が静かに空いた。
起きている善次郎を認めると、美千代と洋平が安堵したような顔をして、しずしずと入ってきた。
「起きてたの」
美千代が、微笑ながら言う。
「ああ、明日のことを思うと、寝つけなくってな」
「私たちも、そうなの。もしかして、あなたもそうなんじゃないかと思って、こんな夜中に悪いと思ったんだけど、勝手に鍵をあけちゃった」
はにかんだように言う美千代の気持ちが、善次郎にはよくわかった。
すでに夏は、美千代と洋平にとっても家族なのだ。
明日が待ちきれなくて、眠れない。
どうせ眠れないのなら、夏の暮らす部屋に居たいと思ったのだろう。
二人のいじらしい気持ちに、善次郎は胸を打たれた。
明け方まで、三人は、夏の話をして過ごした。
活は、美千代の膝で、安らかな寝息を立てていた。
待ちに待った当日、二人は、意気揚々と夏を迎えに向かった。
美千代も、会社を休んでいた。
朝一番に、今日は具合が悪いからと、善次郎の目の前で、会社に連絡を入れたのだ。
洋平も、学校を休むと言って利かなかったが、それは、美千代が許さなかった。
「お父さんとお母さんだけ、ずるいや」
洋平はむくれたが、「その代わり、今日は塾を休んでもいいわよ」という美千代の言葉に、渋々ながら学校へ行った。
三人とも一睡もしておらず、目は充血していたが、夏が帰ってくるという喜びで、しんどさなど微塵もなかった。
夏は、すっかり元気になっていた。
二人の姿を認めると、ニャアニャアと、力いっぱい鳴いた。
夏も、家へ帰れるとわかっているようだ。
ケージを開けると、善次郎の胸に飛び込んできた。
いつもは抵抗する籠にも、自ら進んで入った。
善次郎と美千代は、くどいほど先生にお礼を言って、病院を後にした。
家の傍に来ると、夏が、籠の中でがさごそと身体を動かし、ニャアニャアと鳴きだした。
「よしよし、もう直ぐお家だからね」
善次郎と美千代が、同時に言った。
二人が、顔を見合わせて笑う。
部屋に入り、籠を開けると、夏がダッシュで飛び出した。
夏にとっては、久しぶりの我が家だ。
懐かしそうに、部屋中を見回している。
活が、夏にすり寄っていった。
夏も、活に身を寄せる。
二匹が、お互いの身体を舐め合い始めた。
「お帰り」
そんな二匹を、ほのぼのとした気持ちで眺めながら、善次郎が心の中で呟いた。
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