第51話 永遠の時間
善次郎は、毛布を取り出して夏をくるみ、優しく、、包み込むように抱いた。
暫く抱いていたが、夏の痙攣が治まることはなかった。
善次郎の胸に、命の消えてゆく感触が伝わってくる。
これはいかん。
事態は、一刻を争う。
しかし、土曜の夜は、病院は閉まっている。
どうしよう。
閉まっていても、誰かいるかもしれない。
だが、たとえ誰かいたとしても、診てくれるかどうかわからない。
また、軽く扱われるだけではないか。
病院に対する不信感が、そう思わせた。
しかし、今は、そんなことを言っている場合ではない。
なんとしても、診てもらわねば。
そう思って、夏を美千代に任せ、善次郎は携帯を取り出した。
その時、以前通っていた病院が、土曜の午後も開いているのを思い出した。
そうだ、あの先生なら、信頼できる。
急いで、電話する。
番号をプッシュするのも、もどかしかった。
受付が出ると、善次郎は手短に状況を伝えた。
去勢手術のこと、その後の様態、そして、今の状況。
、 善次郎から用件を伝え聞いた受付の女性が、先生に伝えるから少し待ってほしいと言って、電話を保留にした。
それほど待つことなく、直ぐに連れて来てくださいとの、回答があった。
悠長に、自転車なんかで行っている場合ではない。
善次郎は、慌ただしくタクシーを呼び寄せ、取るものを取りあえず、病院へと向かった。
もちろん、美千代と洋平も一緒だ。
車内では、二人は蒼白な顔をして、今にも泣きだしそうだった。
善次郎は、夏の震えを胸に感じながら、窓外と夏を交互に見ていた。
景色を見ながら、病院までの距離を測り、夏の様子を窺って、病院に着くまで持つのだろうかと、やきもきしていた。
信号が赤になると、悪態を付きたい気分になった。
思わず、ハンドルを奪い取りそうになる。
病院まではものの十分とかからなかったが、善次郎には、永遠の時が流れてゆくように思えた。
美千代と洋平にとっても、そうだったに違いない。
病院に着くと、支払いは美千代に任せて、善次郎はしっかりと夏を抱きしめて、ダッシュで病院に駆け込んだ。
夏を見せるなり、受付の女性は、診療中にも関わらず、直ぐに先生のところへ行った。
先生が待合室に出て来て、一目、夏の様子を見るなり、直ぐに診察室へ連れていった、
五分ほどして、先生が待合室に顔を出した。
順番待ちをしている人々に、順番を抜かして申し訳けないが、事は緊急を要するので、ご理解をいただきたいと言って、直ぐに診察室へと踵を返した。
順番待ちをしている人々も、誰ひとりとして、文句を言う者はいなかった。
みんな、夏のことを心配してくれているのだ。
善次郎たちが頭を下げると、口々に、励ましや慰めの言葉を掛けてくれた。
中には、こっちは大したことではないので、順番待ちが大勢いれば、先生も気を遣うだろうから、また明日来ると言って、帰っていった人もいた。
そんな人々は、必ず、頑張ってねとか、お大事にとか、励ましの言葉を掛けてくれた。
暫くして、先生が顔を出した。
善次郎が様態を尋ねると、今、治療中だとしか言わない。
その顔が、曇っている。
先生が待合室に顔を出したのは、治療経過を伝えるためではなく、これから、どれだけ時間が掛かるかわからないので、急病でなければ、明日にしてくれないかと、診察を待っている人達に頼むためだった。
夏は、よほど危険な状態に違いない。
善次郎は、最悪の事態を覚悟した。
ここでも、誰ひとり文句を言う者はなく、口々に、「助かるといいわね」とか、「頑張ってね」と、励ましの言葉を掛けて、みんな気持ち良く先生の言葉に従って、帰っていった。
善次郎は、これまで、こんなにも、人の優しさや親切が、身に沁みたことはない。
帰ってゆく人々に、心からお礼を言い、深々と頭を下げた。
美千代と洋平も、善次郎に倣っている。
待合室には、善次郎と美千代、それに、洋平の三人だけが残った。
夏の治療を待つあいだ、幾度も先生の指示する声が聞こえてきた。
まるで、テレビドラマのようだな。
不安に胸が張り裂けそうになりながら、善次郎はそんなことを思っていた。
そうでもないと、気が狂いそうだったのだ。
治療を始めてから、一時間が過ぎた。
まだ、先生は出て来ない。
美千代は、祈るように両手を合わせて顔を伏せ、洋平は、涙を浮かべながら、じっと下を向いている。
善次郎は、瞬きもあまりせず、食い入るように、診察室のドアを見つめていた。
誰も、喋ろうとしない。
ここでも、辛い、無限の時が流れてゆく。
一分が、まるで、一時間のように感じられた。
タクシーに乗っている時間とは、比べ物にならなかった。
辛かった。
だが、待つしかないのだ。
自分たちが側にいても、なにも出来ることはない。
自分たちに出来ることは、ただ、祈ることだけだ。
美千代が、善次郎の手を握りしめてきた。
不安に耐えられなくなったのだろう。
無理もない。
治療を始めてから、二時間が経過しようとしている。
善次郎も、気を抜くと、叫びだしそうだった。
洋平は、じっと下を向いたまま、涙が溢れだすに任せている。
二時間半を経過してから、治療室のドアが開いた。
先生が、三人呼び寄せた。
三人は、恐る恐る、治療室へと入っていった。
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