第45話 懐かしき来訪者
善次郎の新居暮らしが三ヶ月を過ぎた、とある日曜日の昼下がり。
善次郎の部屋がノックされた。
チャイムがあるのに、ノックとは。
一瞬思ったが、直ぐに誰が来たのかわかった。
ノックの仕方に、独特の癖があったのだ。
善次郎は相好を崩しながら玄関へと向かい、ドアを開けた。
立っていたのは、善次郎の予想通り、木島さんだった。
「久しぶりだな」
相変わらず、木島さんの声はドスが利いている。
善次郎はほっこりとした気分に包まれたが、昼から活と夏と戯れに来ていた、美千代と洋平の顔は強張っている。
「木島さんだよ」
木島さんと聞いて、二人の顔は、みるみる笑顔へと変わっていった。
「早く上がってもらったら」
美千代の声に、木島さんがおっという顔をする。
「善ちゃん、再婚でもしたのか」
木島さんは、善次郎のことを、いつも善ちゃんと呼ぶ。
「俺の、元女房と、息子だ」
善次郎が、囁くように、木島さんに紹介する。
「ああ、あの、三行半を叩きつけて出ていったという…」
そこまで言いかけて、木島さんはしまったという顔をして、口を噤んだ。
「構いませんよ。本当のことですから」
美千代は気を悪くするでもなく、笑顔で応えた。
「さあ、そんなとこに立ってないで、早く上がってください」
美千代に促されて、木島さんは、遠慮がちに部屋に上がった。
活と夏は、寄っていきもしないが、逃げもしない。
多分、木島さんのことを覚えているのだろう。
猫は三日で恩を忘れるというが、そんなことはない。
犬は飼い主に従順だが、猫はきまぐれな性格なので、それを端的に表現するために、「犬は三日飼うと恩を忘れないが、猫は三日で恩を忘れる」との比喩ができたのだろう。
きちんと躾をしなければ、犬だって飼い主に従順にはならない。
逆に、猫より始末におえないこともある。
そういった意味では、犬のほうが大変かもしれない。
木島さんは嬉しそうに、活を撫でにかかった。
活も大人しく、木島さんが撫でるがままに任せている。
まだ猫を飼っていないとみえて、木島さんは本当に嬉しそうだ。
「あなたの言ったことは、本当ね」
美千代が、善次郎の横にきて囁いた。
「とても、猫を可愛がるような人には見えないけど」
「人は、見かけで判断できないってことが、よくわかるだろ」
善次郎の目は、嬉しそうに活と夏を交互に撫でる木島さんを見ていた。
「本当、その通りね」
ひとしきり、二匹を撫でた木島さんが、善次郎に向き合って座った。
「菊池さんも来る予定だったんだが、ちょっと用事ができちまってな」
木島さんと菊池さんの付き合いは、まだ続いていたのだ。
どこをどうみても合わない二人が、善次郎という共通の知り合いを媒体に、いつしか三人で酒を酌み交わすようになった。
もっぱら、猫の話で盛り上がっていたが、時には、お互いの身の上話をすることもあった。
木島さんが元ヤクザと聞いても、菊池さんの態度は変わらなかった。
菊池さんは、普通に大学を出て、普通の企業で働いている。
裏の世界のことは知らないし、係わり合いになりたくないとも言う。
「活と夏を見る、あんたの目は優しい」
菊池さんが、木島さんを恐がりも敬遠もしなかったのは、木島さんが猫好きだという、ただそれだけのことで、木島さんに好感を抱いていたからだ。
猫に興味がない人からみれば異常だと思うかもしれないが、動物を心から愛する人に本当の悪人はいないという信念を、菊池さんは持っていた。
善次郎も、その気持ちはわからないではない。
動物を単に好きというのと、心から愛するのとは、次元が違うのだ。
ただ、狂信的にはなるまい。
それだけは、いつも心掛けている。
ともあれ、自分がいなくなった今でも、木島さんと菊池さんに親交があると知って、善次郎は、ほのぼのとした気持ちに包まれた。
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