第35話 こんな偶然って
引っ越した当日、活と夏は大人しかった。
二匹ともなにかを警戒するように、部屋の隅にじっと蹲ったまま動こうとしなかった。
喜んで部屋中を走り回るだろうと思っていた善次郎は、拍子抜けした。
そういえば、犬は人に懐くが、猫は家に懐くと聞いたことがある。
あれは、本当だったのか?
しかし、もう引っ越してしまった。今更どうしようもない。
そのうち慣れるだろうと思うことにした。
善次郎が借りた部屋は一階だった。
その部屋しか空いていなかったのだが、その方が都合がよかった。
二匹が走り回っても、下に響くことを気にしないで済む。
それでも、両隣に迷惑を掛けてはいけないと思い、両隣にだけは挨拶をしておこうと思って、手土産を持って挨拶に行った。
片方は、どうやら留守みたいだ。
夜にまた出直そうと思い、もう片方のチャイムを押した。
要件を告げると、若い女性が赤ちゃんと抱いて出てきた。
善次郎が挨拶をすると、女性も結婚するまでは実家で猫を飼っていたといい、少々騒いでも気にならないと言ってくれた。今度見せてくれとも。
猫好きでよかった。いくら大家が猫好きだとはいえ、このアパートの住人がすべて猫を飼っているわけではないし、猫好きとも限らない。
善次郎は少しほっとした。
後は、もう片方の住人だ。
これも猫好きならいいのに。そう願った。
夜に七時頃、隣でドアの開く音がした。どうやら、帰ってきたみたいだ。
この時間であれば、今から挨拶に行っても非常識ではないだろう。
善次郎は再び手土産を持ち、チャイムを鳴らした。中から返事が聞こえた。
要件を告げる前にドアが開いて、住人が出てきた。
その顔を見て、善次郎は驚きのあまり固まってしまい、しばし声を出すことができなかった。
住人も同じだ。固まって、ただ善次郎の顔を見つめるだけだった。
なんと、となりの住人は、善次郎に三行半を叩きつけて出ていった妻だった。
「美千代」
善次郎が、震えながら声をかける。
「気安く名前を呼ばないで。もう、私たちは夫婦ではないのよ」
厳しい言葉が返ってきた。
「なんの用?」
きつい口調で訊かれた。
善次郎が、隣に越してきた旨を告げると、なんでここへ越してきたのと、詰るように言われた。
まるで、追っかけてきたのではないかと言わんばかりだ。
「偶然だ。おまえ達がいると知ってたら、ここへ越してはこなかった」
毅然と答える善次郎に向けられた美千代の眼は、猜疑に満ちていた。
「本当なの?」
「俺は、離婚後お前たちがどこで暮らしているかなんか知りはしなかった。お前も行先を教えたりはしなかっただろう」
「探偵を雇えば調べられるわ」
美千代は、善次郎の言葉を信用しようとはしなかった。
「なんで、そこまでしてお前たちの住処を探す必要がある。離婚してから三年以上経っているのに」
少し怒りを覚えた善次郎が、憤然とした口調で反論した。
「そうね。あなたは、昔から私や子供のことなんて関心なかったものね」
手痛いしっぺ返しをくらった。
だが、自分のしてきたことを思うと、善次郎にはなにも返す言葉がなかった。
子供はと尋ねると、幸い、今は塾に行っているという答え。
離婚から三年半。小学六年だった息子も、今では中学三年なっている。もう直ぐ高校受験だ。
大きくなっただろうな。
善次郎が感慨に耽っていると、子供が帰ってくる前に、このアパートから出ていってくれと言われた。
子供に、顔を見せたくないという。
美千代の気持ちはわかるが、さりとて、はいそうですかと出ていくわけにもいかない。
ここを出ていっても、善次郎には行くところがない。
苦労してやっと見つけた物件である。次を探そうにも時間はかかるし、それに、お金もない。
善次郎は途方に暮れた。
そんな善次郎を見て、彼がここへ越してきたのは、本当に偶然なんだと悟った美千代も、困った顔をした。
「本当に、偶然なのね」
「そうだ」
念を押す美千代に、またもや善次郎は毅然として答えた。
「わかった。もう直ぐ洋平が帰ってくるから、今日は部屋へ引き上げてちょうだい。明日、話をしましょう」
美千代がそう言って、善次郎を追い返した。
「洋平は朝は八時に学校へ行くから、その時間に被らないよう出かけてちょうだい」
引き上げる善次郎の背中に、美千代が声をかける。
まさか、こんなことになろうとは。
部屋へ帰ってきた善次郎は、運命の不思議な悪戯に困惑していた。
「これから、どうすればいい?」
片隅に蹲る、活と夏に話しかけた。
二匹は、善次郎の問いには反応せず、ただ蹲ったままだった。
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