ⅩⅧ 生き続ける伝説(5)

 翌日午前9時。ピカデリー地区、ホテル・リッツ・ロンドンの一室……。


「――…んん? ……ふぁ~あ……今、何時だ?」


 豪勢なスウィートルームの本牛革張りのソファの上で、刃神はまどろむ意識の中からゆっくりと覚醒した。


 気だるい身体を横にしたまま窓の方を眺めると、厚いカーテンの隙間からは明るい日の光が細長い線となって床に差し込んでいる。


「もう、9時か……」


 マントルピースの上の大理石の置時計を見ると、二本の針はⅨとⅫを指していた。


「……っつつ……ちょっと飲み過ぎちまったみてえだな……」


 ソファの上で上半身を起こし、頭に重さを感じながら目の前のテーブルに視線を映すと、その上にはシャンパンやらスコッチやらの瓶やグラスが林立し、ツマミに頼んだルームサービスのチーズ盛り合わせなども散乱している。


 さらにその混沌とした景色の向こう側には、対面のソファでだらしなく鼾をかくアルフレッドの姿が見えた。


 お宝を手に入れた喜びに、昨夜は羽目を外して大酒を喰らい、いつの間にやら眠ってしまったらしい……。


 電気もテレビも点けっ放しで寝てしまったように記憶しているが、今はちゃんと消えている。


 誰か最後まで起きていた者が消してくれたのだろうか? アルフレッドもこんな感じだし……マリアンヌか?


 その時、嫌な予感がふと、刃神の脳裏を過った。


「小娘……あいつ、どこ行った⁉ ……ベッドルームか? っつつ…」


 重たい頭を押さえながら、手に握った〝エクスカリバー〟を杖にして立ち上がると、刃神はベットルームの方へ行ってみる。


 しかし、そこにマリアンヌの姿は見えず、ベッドを使った形跡もない。


 そこでバスルームを始め、すべての部屋を探してみたが、やはり彼女はどこにも見当たらなかった。


「おい! 起きろ詐欺師! 小娘はどこ行った⁉」


 刃神はリビングに戻ると、アルフレッドの胸ぐらを摑んで揺すり起す。


「……うんん……なんすか旦那、朝っぱらから騒々しい……も少し寝かしといてくださいよお……」


「んな暢気なこと言ってる場合か! 小娘がどこにもいねえんだよ!」


 寝ぼけるアルフレッドを刃神はさらに激しく揺さぶる。


「小娘ぇ~? ……ああ、マリアンヌ嬢ちゃんのことっすねえ……いいじゃないですか、もう未成年じゃないんだし、どこ行こうとそれは彼女の勝手。そんなんじゃ、若者に嫌われますよお……ええっ⁉ い、いないって、それ、本当っすか⁉」


 段々と覚醒して来た意識の中で、ようやくアルフレッドは今起きている事態と、そこから予測されるであろうことを認識して飛び起きた。


「おい、てめーにもどっか行くとか伝言は残してねえんだな?」


 寝癖のついた頭のまま目をパチクリとさせて座るアルフレッドに、刃神は改めて尋ねる。


「え、ええ。昨日の晩、三人でここで飲んでたとこまでは憶えてるんすが、いつの間にやらぐっすり眠ってたみたいで……」


「……プーッ! ……やられたな。あのアマ、俺達のグラスに睡眠薬を盛りやがった」


 その言葉を聞いて、刃神はテーブルの上のワイングラスを一つ取り、その中の気の抜けた黄金の液体を僅かに口に含むと、味を確かめるように舌の上で転がしてから勢いよく空中に吐き出した。


「ええっ!」


「となると、あの小娘のやるようなことは一つだ。おい、アーサー王のレガリアはどこへ置いた?」


 さらに驚くアルフレッドに、刃神は重ねて問う。


「ハッ! ……お、お宝は酒の肴に眺めながら飲もうと、向こうのテーブルの上に……ない。あああ、お、俺のお宝~っ⁉」


 となりに続く部屋に置かれた脚の高い木製テーブルの上に何もないのを見ると、アルフレッドは真っ青な顔になって、大慌てで各部屋を探し始めた。


 しかし、数分とかからぬ内に、さらに血の気の失せた顔を下げて彼は帰って来る。


「や、やられました……詐欺師を欺くなんて、とんでもないお譲ちゃんだ……旦那の方もやっぱり……」


「フン。俺はてめーみたいに甘かねえよ。エクスカリバーはほれ、この通りずっと肌身離さず持ってたからな。さすがの小娘も手が出せなかったようだ。ハハッ!」


 魂の抜けたような眼をして尋ねるアルフレッドに、刃神は右手に握った〝エクスカリバー〟を自慢げに掲げて笑う。


 ところが、それを見たアルフレッドは怪訝な顔をして彼に告げる。


「エクスカリバーって……旦那、それ、コウモリ傘っすよ? いつから英国紳士になったんです?」


「ああん?」


 見ると、確かにそれはエクスカリバーなどではなく、黒いナイロン生地の紳士用雨傘だった。


「な、なんじゃこりゃあああああーっ!」


 刃神は英国に来て以来、一番の驚愕の叫び声を室内に響かせる。


「くっそぉ…あの小娘、ギッタギタにぶった斬ってやるっ!」


 続いて鳴り響く、ガシャァァァーン…! とガラスの砕け散る音……悔し紛れにエクスカリバーよろしくコウモリ傘を振るい、刃神はテーブルの上のビン類を横薙ぎに一掃する。


 しかし、その行為は床に敷かれた高級そうなカーペットを汚しただけで、彼の苛立ちを鎮めるまでには至らなかった。


 刃神はますます顔を赤くし、飢えた獣のようにギリギリと歯軋りをさせる。


 が、いくら悔しがったところで、なんの問題の解決にもならない。


「完全にやられましたねえ……」


「ああ、俺としたことが油断したぜえ……」


 二人は、しばしその場で敗北の味に打ちひしがれた。


「……とりあえず、モーニング・ティーでも飲んで落ち着きますか? あればコーヒーの方がいいっすが」


「ああ、そうだな。あの抜け目ねえ小娘のことだ。もう遠くまで行っちまってるだろう。焦ってもしょうがねえ……」


 しばらくの後、哀れな男二人はそんな結論に達する。アルフレッドは緩めたネクタイを締めながら電話の方へ向かうと、ルームサービスを頼んだ――。




 ――コン、コン、コン!


 微かに聞こえる小気味よいノック音……それほど待つことなく、頼んだコーヒーと紅茶はやって来た。


「ご注文のブルーマウンテンとセイロン・ティーにございます」


「ああ、ありがとう。ここで受け取るよ」


 先程、刃神が酒をぶちまけたカーペットのこともあるし、〝商売柄〟あまり干渉してほしくはないので、アルフレッドは入口でそれらの乗った銀のボードを受け取ると、チップをボーイに渡す。


「あ、ありがとうございます、サア」


 だが、そう笑顔で礼を言いながらも、なぜかボーイの目は部屋の中の様子をしきりに覗おうとしていたのだった。


 そのボーイが僅かに見せた不自然な態度に、アルフレッドはそこはかとない不安を感じた。


 そこでドアを閉め、紅茶を刃神に渡した後に、コーヒーのカップ片手に窓の方へと近付くと、開けたカーテンの隙間から何気なく眼下の通りを見渡してみる。


「……ん?」


 すると、この高層階から見下ろすホテルの正面に大きな特殊車両が二台停まり、そこからわらわらと20名程の黒い集団が溢れ出て来るのが彼の目に映った。


 ここからでは蟻のように小さく見えるが、それは明らかに武装した警官隊である。


 ゲッ! なんで、サツがここに⁉ ……ああ、なるほど。マリアンヌ嬢ちゃんがわざわざ通報してってくれたんだな……あんな本気でサツが出張るような凶悪犯が他に泊ってるとも思えないし、つまりはまあ、そういうことなんでしょう……俺達を足止めするためとはいえ、あのお譲ちゃん、ほんと容赦ねえなあ……もう、脱帽だよ、脱帽……。


 アルフレッドはホテルの裏口の方へと小走りに向かって行く別働隊を見送ると、フランス人がよくやるように帽子を取る真似をした。


「……んん? どうかしたか?」


 その奇妙な動作を見て、険悪な顔でお茶を啜っていた刃神が尋ねる。


「あ、いえ、なんでもありません。改めてマリアンヌ嬢ちゃんの手並みの良さに感服してたんすよ」


 しかし、アルフレッドは今見た警官隊のことは報告せずに、冷静を装って刃神にそう答える。


「ケッ! 感心してる場合かよ。なんとかあの小娘の行き先を突き止めて、後を追わなきゃいけねえ……なんか手掛りはねえか?」


 幸い刃神はその嘘には気付かず、苦々しげに相変わらずの悪態を吐いて返した。


「そうっすねえ……とりあえず緑男の骨董店グリーンマンズ・アンティークにでも行ってみますか? あそこのご主人なら、マリアンヌ嬢ちゃんのことについていろいろ知ってそうですし」


 それを見たアルフレッドは、話を合わせてそんな提案をする。


「そうだな……今はそれしかねえか……」


「じゃ、決まりっすね。そうとなったら早速行きましょう……と、言いたいところですが、こんな二日酔いで酒臭いまんまじゃ頭も回わらないってもんです。どうです? シャワーでも浴びて、頭スッキリさせてからにしませんか?ああ、勿論、旦那がお先にどうぞ。若輩の俺は二番手でいいっすから」


 その提案に刃神が乗って来ると、アルフレッドは一体何を考えているのか、この状況下でありながらシャワーまで勧め出す。


「ああ、そうだな。確かにオツムをスッキリさせた方がいいかもしれねえな……んじゃ、一っ風呂浴びてくらあ」


 アルフレッドの言葉が巧みだったのか、それとも盛られた睡眠薬のせいで洞察力と判断力が鈍っていたためか、刃神はまんまとその策略に嵌った。


 刃神がバスルームのドアの向こうへその姿を消すと、アルフレッドはニヤリと密かにほくそ笑む。


「刃神の旦那、勘弁してください。これも前途有望な一人の青年が無事逃げ伸びるためです。例えこれが今生の別れになろうとも、尊い犠牲となってくれた旦那のことは一生忘れません……んじゃ、そんな訳で俺はこれで。さて、ボーイの衣装でも盗んで変装するかな……」


 そして、バスルームの曇りガラスに向かって厚く礼を述べると、気分一点、自分の荷物をまとめ、いつもの軽い調子でこの部屋を出て行った――。

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