ⅩⅥ 林檎の木の島へ(3)

「――ここに、あのキリストの聖杯が埋められているという訳ですね」


 〝ヴィシカ・ピスシス〟と呼ばれる、キリスト教とそれ以前の異教の双方。


「ええ、伝説によればですがね。この水源地にアリマタヤのヨセフが聖杯を埋めたおかげで、ここの水はに関連する〝重なり合った二つの円〟の図形の描かれた井戸の蓋を眺めながらジェニファーが呟いた赤くなったのだとか。ま、実際には鉄分が多いからであるし、この話もおそらくは9世紀に作られた話ではありますがね」


 それに、いつもの素っ気ない口調で、周りに目を配りながらマクシミリアンが答える。


 じつはマクシミリアンとジェニファーの二人も、新生円卓の騎士団が到着したのと同じ頃、このグラストンベリーに来ていた。


 ただ、彼らがいるのは市街地でも僧院跡アビーでもなく、トールとトールの麓に広がるなだらかな丘チャリス・ヒルとの間にある〝聖杯の井戸チャリス・ウェル〟の庭園である。


 そのよく整備されたイギリス式庭園内の井戸から湧き出る水は確かにキリストの血を連想させるように赤く、レッド・ウォーターとかブラッド・ウォーターなどと呼ばれ、神聖な癒しの力があるとして、ここを訪れた多くの人々が飲用している。


 また、この赤い泉とは別に、付近の道端には白い泉ホワイト・スプリングという豊富なミネラルを含んだ白色の水を出す井戸もあり、こちらも皆がペッドボトルで汲んで行ったりなどしているのだが、チャリス・ヒルから流れて来る赤の泉の方が女性の水とされるのに対し、トールから流れ出るこちらの地下水は男性の水とされ、この地で男性の象徴=トールと女性の象徴=チャリス・ヒルが〝聖なる結婚〟をするという神秘主義的な思想なんかも唱えられていたりするのだ。


 そうした神秘的解釈を見る如く、ここグラストンベリーがアーサー王やアヴァロンと関連付けられるもう一つの大きな要因としては〝聖杯〟に関する問題もある。


 1200年頃、ブルゴーニュの詩人ローベル・ド・ボロンは『ペルレスヴォ』を著し、その中でアヴァロンとはグラストンベリーのことであり、13世紀にグラストンベリーの修道院を設立したのはアリマタヤのヨセフであるとした。


 また、彼は『アリマタヤのヨセフ(聖杯の歴史の物語)』において、聖杯はアヴァロンの谷に運ばれたと記したため、アヴァロン=グラストンベリー説はより広く人々に信じられるところとなり、また、アーサー王――グラストンベリー―キリストの聖杯が強く結び付くこととなったのである。


 それが真か否かは定かでないが、この伝説によりこの地には、聖杯の井戸チャリス・ウェルの他にもアリマタヤのヨセフが突き立てた杖から生えた茨(※セイヨウサンザシ)の木など、キリスト教色の強い名跡も多い。


 さらに、グラストンベリーを通る南北子午線――即ち〝ローズ・ライン〟もアヴァロン島の所在を示す目印であると伝承され、ブリテンの神聖な地形の中心をなす柱だとも云われているが、おもしろいことに、その子午線の真上に位置するスコットランドのロスリン礼拝堂は、その地下空間に〝聖杯=サングリアル文書・マグダラのマリアの石棺〟が納められているとして、近年話題になっている例のテンプル騎士団が建てた代物だったりもする。


「ここのところ、ヤツらはずっとなりをひそめていますが、本当にまだ何か行動を起こすつもりでいると思いますか? ここまで警備も厳しくなったことですし、すでに国外に逃れたという可能性も……」


 そんなキリスト教最大の謎とされる〝聖杯〟の埋まっているらしい、開いた蓋の下に穿たれた暗い穴から視線を上げ、マクシミリアンの方を見上げてジェニファーは尋ねる。


 その声に、蓋の図形と同じ〝ヴィシカ・ピスシス〟形になった池を眺めていたマクシミリアンも、彼女の方へと顔を振り向かせる。


 二人が周囲を見回すと、庭園内には彼らの他にも、一般旅行客や瞑想をしている者などの姿がちらほらと見られた。


「なぜ、次の標的はグラストンベリーだと思われたんですか?」


 ジェニファーは続けて問う。


「そうですね……今回は〝感〟……としかいえないな」


 その問いに、マクシミリアンはいつになく歯切れの悪い口調でそう答える。


「だが、何も根拠がないという訳でもない。これまで、ヤツらは著名なアーサー王伝説の伝承地のほとんどで何がしかの行動を行ってきた。まだ直接的には関わっていない場所も数多くあるが、間接的にもまったく触れていない場所とすれば、このグラストンベリーしかない。それに、グラストンベリーはアヴァロンや聖杯とも深く関係する伝説中最重要の地。狂信的なアーサリアンであるヤツらが無視するとはとても思えません。例え、この先、海外逃亡を考えているのだとしてもです」


 言うまでもなく、二人がこの地を訪れているのは観光のためでも、スピリチュアルな癒しを求めているからでもない。


 彼らは、次に新生円卓の騎士団が現れるとすれば、このグラストンベリーだと踏んで、今、この聖なる井戸の傍らに立っているのだ。


 ティンタジェルの一件で、ようやくマクシミリアンの主張が正しいと理解した捜査本部は、英国全土のアーサー王所縁の地という地を警戒するよう地元警察に要請し、イカれたアーサー王を信奉する騎士達の一斉捜索が全国的に開始された。


 もっとも、テロ対策を専門とするSO19やSO13、M15はその捜査方針に懐疑的であったし、仮にそれが本当だったとしても、遺跡を狙うテロ集団などというふざけた輩と真面目に取りあうつもりはないらしく、かなり非協力的な態度ではあったが、それでも当初と比べれば遥かに望ましい環境となったといえよう。


 それに遺跡絡みの事件となれば、ユネスコとの共同プロジェクトの担当官であるマクシミリアンとしては動きが取りやすく、その上、マリアンヌも関連してるとなると大義名分も申し分ない。


 そうして、英国警察に協力する形で自らも捜査に加わったマクシミリアンと彼が引き続き補佐役を頼んだジェニファーは、ここ一週間あまり各地を巡って地元警察と連携を図りながら考えた末、最終的にはここグラストンベリーを本星と定め、今日の朝にやって来たのだった。


「とはいえ、やはり一番大きな理由は感ですかね。どうしても、ヤツらがここに姿を現す気がしてならないんですよ。それに、〝あの女〟も……」


 そう言って、マクシミリアンは再びジェニファーから視線を泉に映すと、まるで愛しい恋人のことでも思い浮かべるかのような目をして錆色の水面を見つめる。


「そうですね。わたしもなんだか、そういう気がします……」


 答えてジェニファーも泉に目を向けるが、彼女の脳裏にはマクシミリアンともまた違って、ある男性の姿が浮かんでいる。


「人間の直感というものは、ただ意識に上らないだけで、無意識下で捉えた多くの情報をもとに適切な判断をしているとも聞く。ならば、この感もあながち信用できないものではないのかもしれない……とにかく、今はこの感を信じて、ヤツらをここグラストンベリーで待つこととしましょう。殊にこのチャリス・ウェルは要注意です。他にトールとアビーもあるが……新生円卓の騎士団の次なる冒険、この井戸の底に眠る聖杯の探究と見た!」


 振り返ったマクシミリアンは、何やら自信ありげな微笑をジェニファーに向けた。

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