鹿だけに

八ヶ岳南アルプス

鹿だけに

 ――うおっ!?


 次の瞬間、衝撃と轟音が体と五感を揺るがした。


「心臓が口から飛び出る」と言うのは、きっとこの事を言うのだろう。


 山梨の、特に山沿いや湖の傍では夜になるといろいろな動物が人間の生活圏に出没する。いや、「動物達の生活圏に人間が居座っている」、と言う方が正しいのかもしれない。


 道路を横切っていた鹿に、とっさにハンドルを左に切って草むらに突っ込んだ。もし反対にハンドルを切っていたら、そのまま湖に「真っ逆さま」だったかもしれない。

 心拍数と呼吸が落ち着くのを待ち、自分が生きているのを確認し、車から降りてバンパーやライトを確認した。間一髪、鹿と接触はしていないようだ。


「車かよ……」


 何か聞こえたような気がして辺りを見回す。


「車の方が心配かよ!?」


 振り向くと、鹿がこちらを見ていた。明らかに僕を睨んでいる。


「シカトしてんじゃねーぞコラッ! ……鹿だけにね!!」

「無事……だったんですか」


 僕は冷静に返した。なぜ敬語を使ってしまったのかは分からない。


「とどめさしに来たのか?」

「……はい?」

「だから、とどめさしに来たのか?」

「いやいや、とんでもない!」


 鹿は僕と車に近寄って来た。思わず身構える。


「ビビってんじゃねぇよ、チキンが! ……鹿だけどね!!」

「とにかく、無事で良かったです」

「ったく、この危なっかしいモンで、何頭の仲間が殺されたか……」


 鹿は前足で車をコンコンとつついた。


「近くにキツネの親子が住んでてな、子ぎつねがぺっちゃんこになってたんだよ、コイツのせいで」


 鹿はまた前足でコンコンと車をつつく。


「あのー……車が来たら避けてほしいんですけど」

「はぁ? 馬鹿かオメーは!? ……鹿だけにね!!」


 鹿は僕の鼻先にグイッと顔を寄せて来た。


「近い……です」

「コイツの怖さと速さを教える前にぺっちゃんこになっちまったんだよ!!」


 確かに。人間にとっては「車は危険なものであり、来たら避ける」と言うのは常識である。


 しかし、動物達にとっては……


「昔は八ヶ岳も住みやすかったのになぁ」

「人間のせいで、住みにくくなってるんですよね……」


 なんか僕が人間の代表として責められているみたいで釈然としない。とは言え、今この場で「人間と動物の共生」について議論する気には到底なれない。


「こんなモンがビュンビュン走り回るようになってから、たくさんの仲間の血を見るようになった……ああ、恐ろしい」


 鹿は首を横に振りながら、僕に背を向けて歩いて行った。


「動物を轢き殺してるのは、僕だけじゃないし……」


 口が滑った瞬間、周りの空気が変わった。


(……なんだ?)


 風がなくなり、辺りが静寂に包まれる。


「その車とやら、一体どれだけの動物の血を吸っているのか……」


 鹿はゆっくりと僕の方へ振り返った。


「お前にも流れてるよな、赤い血が」


 鹿は呪文を唱えるように呟きながら近づいて来る。僕は後ずさりしたものの、恐怖で思うように体が動かず、その場で尻もちをついた。


「何とも思わないのか? 同じ動物として」


 鹿はさっきと同じように、僕の鼻先に顔を付ける。

 嫌悪、憎悪、恨み……あらゆる負の感情を宿した眼は、もはやさっきまで「鹿だけにね!」と言っていた鹿のそれとはまったく違う。


「仲間が流した血は、お前の血で贖うのが道理」


「悪いのは僕だけじゃない! 悪いのは僕だけじゃない!! 僕だけが……」


 もうなす術がない。僕は観念して目を閉じた。


 ……ん?


 てっきりガツーンと何かが来るものだと思ったが、特に何もない。


「……行けよ」


「へ?」


 ゆっくり目を開けると、相変わらず鹿の顔は僕の鼻先にある。ただ、さっきまで眼に宿っていた悍ましい光は消えていた。


「気が変わらねぇうちに、とっとと行けってんだよ!」

「あ……はい」


 僕はよろよろと立ち上がり、運転席のドアを開けた。


「あの……安全運転しますから!!」

「ったく、仕方ねぇな……」


「鹿……だけに?」


「やっぱ殺す」


「ああ!? す、すみません!!」


 僕はドアを閉め、シートベルトをせずに思いっ切りアクセルペダルを踏んだ。


 そしてライトをつけると……


 車はガードレールを突き破り、暗い暗い湖へと落ちて行った。


 全てがスローモーションのように流れる時間の中で、僕は思った。


「これが……仕返しか」


 鹿……だけに。

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