Mission 02

     *


 領収書だけ切ってもらい、上司がいつもするようにアパートの前にタクシーを待たせて、私は急いで部屋に戻った。

「あ、ごめんなさい!」

 途中、階段前で男性にぶつかる。ビジネスバッグを取り落とし、睨まれるも気にしていられない。

 早く、早く。

 部屋に入るや玄関前に置いてあった鞄に財布を移し替え、コートを着替える。変装用に買った伊達眼鏡をかけ、少し考えて、いつかのテールウィッグを兄からもらった帽子で固定する。シンプルでどこにでもあるデザインの帽子。兄にとってはいいヒントになるだろう。今日は上司の時とは違う。バレたらバレたで面白い。

 一分以内に別人のようになった姿に満足しつつ、今度は静かに静かにドアを閉める。部屋の明かりは灯したままで鍵を閉め、足音を立てないように部屋を離れる。このアパートに監視カメラはない。音さえ立てなければ、大家さんはごまかせる。

 階段前で先ほどの男性とまたすれ違う。どこかで見たことがあると思ったけれど、このアパートの住人だったらしい。また睨まれるかと思ったけれど、彼はこちらに目もくれなかった。どうやら他人から見ても別人になれているようだと、ひとり悦に入る。

 出来るだけ音を立てないように、出来るだけ急いで。タクシーに戻ると私はもう一度、運転手に告げた。

「駅前の、さっきの居酒屋まで戻ってください」

 運転手がこちらの姿に驚きつつ走らせ始めた車の中で、居酒屋に電話を掛け、席を予約する。十三番席。兄の居る席の隣だ。運良くまだ客はついていなかった。

――よし。

 環境は整った。

 帽子と髪を整え、ついでに乱れた息も整えた。


 結局その日、私が尾行をすることはなかったのだけれど。


     *


 十三番席に通されると、声色を変え、店員にビールとつまみをいくつか注文する。

 兄はまだ隣にいた。そしてまだ、その横には誰もいない。しばらくひとりで飲むと言っていたあの言葉に嘘はなかったらしい。

 時刻は午後九時五分前。あとどれくらいここで飲むつもりだろうか。

 上司に決められた私のリミットが九時だったことを兄は知っていた。つまり、予定を入れているならそれ以降ということになる。どこで待ち合わせをしているのかはわからないが、私と一緒にここを出るくらいの予定だった可能性は高いんじゃないか。だから多分、動くならもうすぐだ。

 テーブルに肘をつき、ゆっくりとビールを口に含みながら、逸る気持ちを抑えつける。

 けれど、十分を過ぎても一向に兄が席を立つ気配はなかった。

――まさか、待ち合わせ場所ってここ?

 もしかすると、約束自体がなくなったのかもしれない。兄が気の済むまで飲んで終わり、という可能性もないとは言えない。それはさすがにつまらないなぁと思い始めた頃。


 午後九時二十分。私の期待を大きく裏切る『それ』はやってきた。


「お連れ様お見えです」

 そんな言葉とともに衝立の向こうから聞こえてきたのは、

「……どうも」

 私にとって非常に聞き慣れた、優しい声だった。

「早かったな。逃げずに来たか、御曹司」

 対するのは、不機嫌そうな兄の声。

――……なんで。

 アルコールで火照っていた頬が、急速に冷えていく。

「ええ、約束ですからね」

 苦笑混じりに声が答える。

 

 身体が強ばって、背中を嫌な汗が流れていく。

 握りしめたグラスから水滴が手首に伝った。

――なんで……!!

 なんで城ノ内紘がここに来るんだ。

 よりによって今、私が一番会いたくないこの人が!!

 答えなど分かり切っているのに、なんで、が頭の中で繰り返される。

――約束、してたんだ。

 考えてみればなにもおかしいことはない。上司はただ私に残業させるなと言うためだけに兄がわざわざ連絡を寄こしたように言ったけれど、その他の用件がなかったとは言っていない。いくらシスコン兄貴でも他に用件があったと考える方が自然だ。


「まぁ、座れ」

 兄の声の後に、わずかな衣擦れの音。おそらく兄の対面に腰を下ろした城ノ内紘は、

「あ、いや、俺酒は」

 目の前に注がれた酒を固辞した。

「あぁ、お前駄目なんだっけ。つまんねぇ奴だな」

 酔っているのか、それとも対峙する相手の問題なのか、兄の態度は悪い。吐き捨てるように言った兄に、また上司の苦笑が聞こえる。

「飲んどいたほうがいいんじゃないのか、痛み止め代わりに」

「いや、……覚悟はしてますから」


――痛み止め?

 手の中のビールの存在も忘れて、聞き耳を立てる。話が読めない。

 ここ数日、上司が怪我をした様子はなかったけれど。


「忙しかったんじゃないのか、お前」

「最近はちょっとね。でも、やっと片が付きました」

「仕事は忙しくないって言ってたぞ? 女か?」

 どこか某居酒屋の店主を彷彿とさせるその言い方に、上司が苦笑した。

「ま、そのうちわかりますよ」

「けっ、なんだそりゃ。まぁどうでもいいけどー」

「西園さん、ちょっと飲み過ぎじゃないですか?」

 私の頭の中を上司が代弁する。私がこの席に着いてからの半時間ほどの間にも、何度も追加注文をしていた。隣で見ていてもペースが速いのだろう。

「やけ酒だ。飲ませろよ」

「何かあったんですか」

「娘の成長を目の当たりにした父親ってのはこんな心境なのかねぇ」

「は?」

「取られた気分だ。お前に」

「…………あぁ」

 珍しく酔っぱらってくだを巻き続ける兄に、上司が内容を察したらしく、納得したような声を漏らす。『ったく、このシスコンが』とでも聞こえてきそうな面倒くさそうな声だった。

「……幸せなんだとさ、今」

 少ししんみりした声で、兄が呟く。上司は答えなかった。

 運ばれてきた烏龍茶のグラスに口を付けたのだろう。カランと氷の音が小さく響く。

「よりによってお前のところにいるなんてな。こんなことなら、……あの時、お前が逃げたりせずに、そのままあいつと結婚してたら普通に上手くいってたんじゃないのか」

 どこか切なげに口に出されたifは、存在しない未来を想像させる。

「……さぁね。俺は、確証のない推測は口にしない主義です」

 そう言って、彼はまたグラスを傾ける。氷の音に次いで、テーブルに置かれたグラスの底がコトンと音を立てた。

「でもまさか、本気で言ってませんよね? 今のは、西園あかりの兄としての言葉であって、西園の跡継ぎとしての言葉じゃないでしょう」

「……まぁな」

 短くそう答えると、兄がお猪口を呷る気配がした。

「あの話が進んでたら、今頃うちの名前はこの街から消えてただろうし」

 

 兄の声に、小さく息を呑む。

 今このふたりは、あの結婚話をきっかけに穂積は西園を吸収するつもりだったと、そう言ったのだ。


「あの話が立ち消えたのを嘆いてたのは親父だけだ。あくどいやり方が常になってると、自分よりあくどい存在を忘れがちだからな」

 兄の返答に満足したように、ふっと息を吐く音が聞こえ、

「……いち早く、西園があなたに経営権を移すことを祈ってますよ」

 上司のその声は、皮肉めいた笑いを含んでいた。

 兄は、そのセリフを鼻で笑うと、そういえば、と話を続けた。

「うちはともかく、なんで穂積があんな結婚話に乗ったんだ。うちと関わりを持つきっかけってだけなら、別に結婚って手段じゃなくてもよかったんじゃないのか。結納金が無駄になるだけで、特に利益があるとは思えないけど」

「……それに関しては、おそらく俺のせいです」

「あ?」

「原因は、俺の今の商売道具です。情報網作ってることを親父に勘付かれました。都合良く西園が接触してきたってだけで、俺を縛り付けられるなら誰でも良かったんですよ。嫁あてがって子供でも作らせれば、妙な動きはやめて大人しくなるだろうってね」

「なるほど。それで大げんかか」

「……恥ずかしながらね」

 そう言って、上司は自嘲気味に笑った。


「……良かったのかもしれないな」

 兄は数秒掛けて、大きく深いため息を吐き出し、ポツリとそう言った。

「え?」

「お前も、あかりも、俺も。なんだかんだでいい道を選択してるのかもしれんってな」

「…………。そう、ですね」

「穂積……あぁ、いや、城ノ内か」

 この前の件、ありがとな、と。おそらく、先月の一件のことだろう。先ほどまでの酔いが何処かへ行ってしまったように、静かに、真面目な声で兄は言った。


「――園田あかりを、よろしく頼む」


「…………はい」

 衝立の向こう側で、穏やかな声が、力強く響く。

 手の中ですっかりぬるくなってしまったビールを、乾いた喉に半分流し込み、静かに息を吐き出した。緊張感に、今まで息をし忘れていたような錯覚に陥る。

「でも、約束はチャラにはしないからな」

「わかってますよ」

「今のはあくまで、あいつの上司としてだ。あかりに手を出したら一発じゃ済まないからな。殺すぞ」

 そんなシスコン兄貴の発言に、いい加減うっとうしくなったのか、

「善処、させていただきますよ。今後は」

 城ノ内紘は、嘲笑混じりに、そんなセリフを口にした。


――まぁ、まったく手を出してないというと嘘になるしな。

 妙なことを思い出してしまい、質の違う熱が頬に戻る。

 あの時は状況が状況だったから、ノーカンにしていただきたいところだけれど。


「じゃあトラウマになるまで説教してやる。もうしばらく付き合え」

 上司の言ったセリフをタチの悪い冗談と取ったのか、酔っぱらいモードが再開したように兄がそう言った直後、衝立の向こう側に店員が注文を聞きに来る。

 小さすぎて聞こえないやり取りがあった後、向こう側の会話はまったく聞こえなくなった。


――やばい。バレた。

 直感した。あの店員は『友達』だったんだ。衝立の向こうに盗み聞きしてる奴が居るとでも言ったのだろう。これだけの間、ビールを手にしたまま固まって動かなければ、怪しまれても仕方ない。

 幸い、声を掛けてこないということは、相手が私だとは思われていないのだろう。

 どうやら私の『推理』は、当たっていたようだ。

 こうなればここにいる意味はない。こちらの様子を探られる前に、退散するのが吉だった。


 伝票を手に、レジへ向かう。

 気付かれないようにほんの一瞬、ちらりとうかがった衝立の向こう側の説教は、ずいぶんと楽しそうだった。


     *


 クリスマスイブの夜は、どこもかしこもイルミネーションで溢れていて、思わず目を細める。私の名前の由来となったその色とりどりの光たちは、辿り着いたその建物の植木も静かに覆っていた。

 建物の前でひとり、植木の脇に腰掛ける。大通りから一本道を隔てていることもあり、人通りはそれほど多くない。時折恋人達が肩を寄せ合って通り過ぎるのをただ、ぼんやり眺める。羨ましがっているわけではない。正直どうでもいいのだけれど、それでもどちらかというと末永く幸せであってほしい。願わくば、彼らが将来、うちの客になったりしないことを。

 カイロ代わりに自販機で買った紅茶は、とうに冷めてしまった。息を吐きかけた手袋のない指先は紅く染まっている。この植木のライトがLEDじゃなかったら、あとほんの少しはこの場も暖かかったんだろうか?

 質が悪かったのか、ちくちくと首筋を刺すのでテールウィッグは外した。帽子だけじゃなく、マフラーも持ってくれば良かったと、コートの襟を引き寄せる。

 数メートル先にあるモニュメントの時計に目をやると、午後十一時半を回ったところ。ここに着いて、一時間半が経っていた。

 駅はすぐそこだ。終電ギリギリまで待ってみてもいいし、この駅は客待ちのタクシーも多い。

 いつ帰ってくるのか、いや、そもそも帰ってくるのかどうかもわからない人を待ち続ける。そんな殊勝な人間じゃないはずなのに。

 それでも、ただ、確かめたかった。


 また一台、ロータリーにタクシーが止まる。

 反射的に視線をやると、降りてきたのは年配の女性だった。

――何、やってんだろう……私。

 帰ってきたら、なんて言えばいい? きっと怒られる。

 このまま帰ったほうがいい。何も知らない振りをするのが正解なんだ。

 ふと見上げた空は暗く淀んで、星が見えなかった。

「雪、降りそうだな……」


「降るよ。天気予報で言ってた」


「――――っ!」

 弾かれたように、身体が動く。振り返ると、やっぱりそこには、

 軽く腕を組んで、私を見下ろす上司の姿があった。


「ここで、何してるの」


 口元に笑みを浮かべたまま、鋭い視線を投げかけられる。冷え切った声が辺りに響く。

 足がすくむくらいの圧力を感じながらも、彼から視線をそらすことが出来なかった。

「……お帰りなさい」

「質問に答えて。ここで何してる?」

 苛立ちを抑え込むように、彼はゆっくりと繰り返す。

「……城ノ内さんを、待ってました」

「どうして」

 間髪入れずに問い返され、言葉に詰まる。

「あれほどひとりで出歩くなって言ったのに約束破って、携帯も持たずにこんなところで俺を待つ理由を聞いてるんだけど?」

 笑みは既に消えていた。いつになく厳しい口調で、上司は詰問する。

「……っ」

 彼の顔を見た瞬間、自分の推測が正しかったことを知った。

 勘違いであることを祈っていたのに、こういう時、私の推理は当たってしまう。

「だって、……私の、せいでしょう?」

 思わず視線を下げて、唇を噛む。

「……何が」

 不機嫌に返される質問。彼は私の言いたいことに勘付いている。

 もう一度顔を上げ、彼のほうへまっすぐに手を伸ばす。

 私の右手が触れるか触れないかの瞬間、彼がハッとしたようにその手を掴んだ。そこへ触れることに対する、拒絶の意思。私は手を掴まれたまま、触れ損なった彼の口角に視線をやった。

「…………血、付いてます」

 そこにはほんの少しの、赤が滲んでいた。

「……ごめんなさい」

 私の言葉に、今度は彼が視線をそらす。

「なんで君が謝るの」

 指摘されたところを軽く舐め取って彼は視線を戻し、私の手と顔を見比べた。

「手ぇ冷たすぎ。いつから居た?」

「……十時過ぎくらいです」

 私と同じく手袋のない彼の手は、まだ冷えてはいなかった。

 ふと見れば、いつもの鞄の他にコンビニの袋をぶら下げている。すぐそこのコンビニに寄るために、少し手前でタクシーを降りたらしい。今回後ろから声を掛けられたのは尾行の時とは違い、あくまでたまたまだったのだ。

 私の返答に、呆れたようにため息を吐くと、

「おいで」

「……えっ?」

 掴んだままの私の手を引いて、彼が踵を返す。目の前の建物――やっと突き止めた、彼の住むマンションの中へ。

 高層ビルのそれほど多くないこの街では一二を争うタワーマンション。警備員が見守る中、明るいエントランスホールを抜けてエレベータに乗り込むと、彼は点滅している階のうち二十一階のボタンを押した。

 エレベータの稼働音がほんのわずかに聞こえるだけの静寂の中で彼は言葉を発することなく、私も沈黙を破れずにいる。まさか念願のミッションクリアがこんなに喜べないものになるとは思っていなかった。

 ここまでで三度もカードキーを使用する厳重なセキュリティと、何より繋がれたままの手が、逃がさないと言われているようで、妙に緊張した。

『手ぇ繋いでうちに連れて帰ってあげるから』

 いつだったか言われた言葉を思い出す。奇しくもあの言葉通りの状況だ。降参するどころか、ちゃんと自分でここまで辿り着いたのに。

 こっそりとうかがった彼の横顔は先ほどと比べればまだ穏やかで、時折眉間に皺を寄せる不機嫌な表情は変わらないものの、張り詰めた空気は幾分緩んでいた。


     *


「どうぞ」

 玄関のドアを開け、やっと手を離してくれた彼は、短くそう言って不機嫌な表情のまま廊下の奥へと歩を進めた。

「……お邪魔します」

 居心地の悪さで帰りたい思いに駆られながら、呟くようにそう言った。

 短い廊下の先、開けられたドアの向こうへ、彼に続いて足を踏み入れた瞬間、暖かい風に頬を撫でられる。

「ま、座って」

 ソファを勧められ大人しく腰掛けると、彼はコートを脱ぎながら奥の部屋に消えた。

 明かりを点けられたばかりのリビング。ある程度予想していたとはいえ、広さに圧倒される。

――やっぱ、いいとこ住んでるなぁ。

 家を出て誰からの援助も受けず自分の力で生活しているのは私と同じなのに、格差に少しだけ悔しさを覚える。私の住む部屋が余裕でふたつは入りそうなその空間は、おそらく備え付けであろう家具以外ほとんどなにもなく、綺麗に整っている。なんだか随分と生活感がないように思えた。

 ふと違和感に気付く。彼はたった今帰ってきたばかりなのに、この部屋は何故か人がいたかのように暖かい。彼はここに入って明かりをつけた以外、特に何かをした様子はなかったのに。

「……エアコンつけっぱなし?」

 ボソリと漏らした言葉に、

「いや、遠隔」

 すぐ後ろから声が答えた。驚いて振り返った瞬間、頭の上にふわりと何かが降ってきて視界が遮られる。

「……っ?」

 頭からすっぽりと柔らかい感触に包まれて、やっと自分が毛布を被せられのだと理解した。

「なんかの妖怪みたいだな」

 笑いもせずにそう言って、傍らの遠赤外線ヒーターの電源を入れ、上司はまたこちらに背を向ける。

 頭の上から毛布を引き下ろして乱れた髪を直しながら、その背に問うた。

「遠隔?」

「そ。今の家電はすごいね。携帯から遠隔で電源入れられるんだよ」

 さすが最新のものをお持ちで、と嫌みが漏れそうになったが、思いとどまる。やっと穏やかになってきた空気を変えるきっかけになるような言葉は極力避けたい。

「…………」

 赤い指に息を吐きかける。冷えすぎていたのか痒さを覚えて、ぐっと爪を押し当てた。

 一度強く、目を閉じる。まぶたに浮かぶのは、口の端に滲んだ血の跡。

 罪悪感が胸を突く。まさかとは思ったけど、やっぱりか――


「――はい」

 コトリと音がして、目を開ける。テーブルにマグカップが置かれていた。

「……ありがとうございます」

「熱いから気をつけて」

 両手で包むように手にしたカップはじんわりと指先を温めてくれた。慎重に息を吹きかけながらほんの少しだけ口の中に入れた液体は、ほんのり甘いホットミルク。穏やかなその味は、暗く沈んだ気持ちを少しだけ浮上させてくれた。

 上着を脱いでネクタイを外すと、彼は一人分の隙間を空けて隣に腰掛けた。

 静かにグラスの水をあおりながら、

「やっぱり、君だったのか。盗み聞き」

 ごく穏やかに、そう言った。

 うつむいたまま沈黙で肯定すると、彼は呆れたようにため息を吐いた。

「まさかとは思ったけどね。わざわざ携帯置きに帰ったってことは、気付かれてたか」

「……はい」

「俺も詰めが甘いな。逆手に取られるとは思ってなかった」

 彼はグラスを置いて、脱力したようにソファに背中を預ける。

 敢えて核心に触れないやり取りはすべて、私の『推理』を肯定するものだった。


『誓って盗聴はしてないよ』

 それはつまり、盗聴以外の何かをしているということ。

 私が家に居るかどうかを確認する方法は大家さんだけじゃないし、私を探す方法は『友達』だけじゃない。

 一番手っ取り早い方法は、私自身の居場所を常に把握しておくこと。

 一ヶ月前のあの日、私の携帯に仕込まれたスパイツールは――やっぱりまだ削除されていなかった。


 彼は、携帯のGPSで私の居場所を把握している。

 そう『推理』したから、携帯を置きに家まで帰った。案の定、彼は私の居場所を把握出来ずに、私を探そうとはしなかったし、盗み聞きの相手が私だという確信も持てなかった。

 彼が電話一本掛ければすぐさま崩れ去る脆い計画。それでも計画は成功した。

 兄の会った相手が彼ではなく別の人物だったなら。

 私が妙な感情に囚われて、ここで彼を待ったりしなかったなら。

 きっと、私は彼に外出を勘付かれることなく、つかの間の解放に思う存分羽を伸ばして、今日一日を終えていたはずだった。


 彼がまた、眉間に皺を寄せる。

「なんで、居酒屋に戻った?」

「……単なる好奇心です」

 苦笑しながら、正直に答える。

「兄が婚約者と会うのに、私には教えないって言うもんだから、居酒屋から尾行して見てやろうって」

「余計なこと言ったな、あの馬鹿兄」

 上司はため息を吐きながら、眉間を抑える。

 どこか辛そうにも見えるその横顔に、ちくりと胸が痛んだ。

「なんで、そんな馬鹿な約束したんですか」

 今度はこちらが質問した。またひと口甘いミルクを飲み下して、テーブルにカップを置く。

「……なんの話?」

 彼はまた不機嫌な顔で、ちらりとこちらに視線をやる。

「…………兄との約束って、それだったんでしょう?」

 ソファに脚を上げてまっすぐに彼のほうを向き、先ほどと同じように彼の左頬に手を伸ばす。今度は遮られはしなかったけれど、そこへ触れた瞬間、彼はわずかに身を引いた。血の跡はなくなっていたものの、ほんの少しだけ腫れた口もと。痛んだのか、ピクリと一瞬顔を歪める。

「……この前の件で、情報もらう条件だったんじゃないですか?」


『約束ですからね』

『痛み止め代わり』

『覚悟はしてますから』

『約束はチャラにはしない』

『一発じゃ済まないからな』

 盗み聞いた内容では、確信には至らなかった。

 だからこれは想像でしかない。彼なら絶対に口にしない、不確かな『推理』。


「……ちょっと違うかな」

 殴られたところを軽く押さえて、上司はやっと、困ったような笑みを見せる。

「どっちかって言うとこれは、五年前のツケだから」

「兄と会わなかったら払う必要のなかったツケでしょう?」

 彼に伸ばしていた手を下ろして、そのまま自分の手を追うように視線を下げる。

 それならやっぱり、私のせいだ。私があの時素直に話していたら、わざわざ兄に会いに行く必要もなかった。

「けじめって奴だよ。これでも俺はすっきりしてるんだけどね。大分手加減してくれたみたいだし」

 苦笑しながら、もっとも単に殴り慣れてないだけかもしれないけどね、と付け加える。

「怪我してる人が言うことですか」

「口ん中ちょっと切っただけだよ。残念ながら、俺も殴られ慣れてはいないんでね」

「……ごめんなさい」

「だから、別に君のせいじゃない」

 そう言って彼はグラスを手に取り、また少し水をのどに通す。

「……なるほどね。それで謝るためにわざわざ待ってたわけだ」

 彼が、仕方ないなぁ、とでも言いたげに短く息を吐く。不意に頭に重みがかかった。

 兄とは違う穏やかな頭の撫で方に顔を上げると、

「でもさ、俺が帰ってこなかったらどうするつもりだった?」

 まっすぐにこちらを見ている彼と目があった。その目には少しだけ、咎めるような色が混じる。

「城ノ内さんも兄と飲み明かすほど気は長くないでしょう? 兄は婚約者と会うって言ってましたし、ある程度の時間で解放されると思ってました」

 私の頭から手を離し、彼は続ける。

「俺だって他に予定があったかもしれないよ? クリスマスイブなんだし」

 女性関係疑ってたんでしょ? と、見透かすように目を細めて。

「……殴られる予定だった人が、その後にわざわざ女性に会う予定を入れているとは考えづらいです。城ノ内さんが敢えて慰めてもらいに行くようなタイプとは思えませんし」

 彼の頬は腫れも近くで見ないとほとんどわからないほど目立たないけれど、その程度で済むとは限らなかったはずだ。可能性は高くないとはいえ、兄が手加減する気がなかったら、街を歩くのすら恥ずかしい顔になっていたかもしれない。

「……なるほど」

 素直に感心した顔をして、彼は数回頷いた後、手にしたグラスの中身を飲み干した。

 緊張していたのか声が出しづらくなったように感じて、私も喉を潤そうとカップに手を伸ばす。

「でもさ、そこまで考える君が、」

 けれどカップに届く前、何故か、その手を掴まれた。

「?」

 彼は自分のグラスをテーブルに返し、こちらに向き直ると、またぴくりと眉を寄せ、

「――なんで自分が危険な目に会うとは考えないんだろうね?」

 そのまま、私の身体をソファへ押し倒した。


「……っ」

「本当に危機感がないね。だから心配だったんだよ」

 片手は私の左手を押さえつけたまま、ソファの背もたれにもう一方の手を掛けて、私を見下ろす。

 膝の間に感じる重みがスカートの布を引っぱって両足を圧迫している。それは縛り付けられているのと大差なく、ろくに身動きが取れなかった。

 また眉間に皺を寄せながら、彼が冷笑する。

「痛い目見ないとわかんないなら、この前の続きでもしてみせようか?」

 いつもよりワントーン低い声は妙な艶を含んでいて、言葉の内容も相まって、頬が熱くなる。

 それでも、前と違って怖くはなかった。観察するように彼の顔をじっと見つめると、不意に距離を詰められる。あと少しで口唇が触れそうな距離で、不機嫌な顔が問うた。

「君は今日、何人とすれ違った?」

「……?」

「その中に、君に危害を加えようとする人間がいた可能性を君は考えた?」

「……心配性、すぎます」

「君が楽観的すぎなんだよ」

「そんなこと、ないです」

 息が詰まりそうな押し問答。でも、きっと限界は近い。

「面倒くさいね。いいよ、もう」

 そう言って、彼はくすりと笑う。

「このままここで君を監禁してしまえば、こんな心配もしなくて済むから」

「……っ」

 脅しだとわかっていても、ぞくりと背中を冷たいものが走っていく。

「幸い携帯も持ってないから、助けを呼ばれる心配もないしね」

 彼は少しだけ身を離し、既に感情のない目を細めて、私の髪を梳いた。

「――じゃあ、始めようか。逃げる気もなくすくらい、めちゃくちゃにしてあげるよ」

 冷たい声が、ひと月前に私が言ったセリフを踏襲する。

「…………」

 やめて、と抵抗することを、彼は望んでいた。わかったから、大人しくしているから、何もしないでと。

 それはきっと正しかった。きっとこんな方法でしか、私は言うことを聞かなかっただろうから。


 ただひとつ彼の計算外だったのは、私が、彼の思うよりずっと彼のことを見てきたということだ。

 ふっと息が漏れる。他の人ならきっと気が付かなかった。でも、私は違う。

 彼がそれを隠すことにあまりに一生懸命で、情欲的なセリフも、逆に可愛く思えてしまう。

 唯一自由の利く右手を、ゆっくりと彼へ伸ばす。彼の耳元の髪を軽く梳き、微笑って。


「出来ないくせに」


「……っ、なんで、そう思うの」

 こちらの余裕の笑みに気圧されたように、彼が言葉を詰まらせる。

「だって、」

 くしゃりと、彼の前髪を乱しながら、問いかける。


「――眠いでしょう? 今」


 最初は苛立ちからだと思っていたけれど、頻繁に眉を寄せる仕草はどこか不自然で。垣間見える表情は、次第に辛そうなものに変わっていった。


 一瞬、目を見開いた後、

「――はは、」

 乾いた笑い声を漏らして、彼が表情を崩す。

 緊張の糸が切れたように息を吐いた彼の顔は、

「……君には勝てる気がしないな」

 なんだかとても穏やかなものだった。

「飲まされたんですね、兄に」

「……ご明察」

 白旗を上げたことで耐えきれなくなったのか、短く呟くと、彼の身体が崩れ落ちてくる。

「ちょっ、」

「……あぁくそ、かっこわり――」

 ほとんど身動き取れない状態でどうにか彼の身体を受け止めると、

「……城ノ内さん?」

 人の胸に顔を埋めて、意識を飲まれ始めた彼は、

「無事で、良かった」

 最後にそう呟いて、意識を閉じた。


     *


 事務所にあるものと同じコーヒーメーカーに、中挽きの珈琲粉をセットする。口の中を切ったと言っていたし、あまりよくなさそうなので、少し薄めに調整してスイッチを入れた。

 ポコポコと響き始めた音を聞きながら、冷蔵庫の中身を物色する。

「うわ、なんにもないなぁ……」

 あまり使われてはいなさそうなキッチンの周りも含め、見つけられた食材は牛乳と卵、それに昨日彼がぶら下げていたコンビニ袋の中にあった食パンだけだった。調味料だけは一通り揃っていたのは幸いだったが、作れるものは限られている。


 午前の光が窓やベランダから流れ込んできて、眩しいくらいに明るい部屋。見下ろす街はうっすらと雪で白くなっていて、窓を開ければ冬らしい冷たい風が入ってくるのだろうけど、もしここに居るのが私ひとりならエアコンを切ってもいいんじゃないかと思うくらい、暖かな陽射しだった。

 周りにコーヒーの匂いが漂い始める頃、

「あかりちゃん……?」

 フライパンを探す私の後ろから、声が掛けられた。

 振り返ると眠そうに目をこする上司が、不思議そうにこちらを見ていた。

「起きたんですね。おはようございます」

「……おはよ。今、何時?」

「十時過ぎです。早かったですね。もうちょっと起きないかと思ってました」

「……んー?」

 皺になったシャツで、まだ寝ぼけたような声を出している上司がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。

「シャワーでも浴びてきたらどうですか? 上がってきた頃にはこっちも出来ますから」

「んー」

 聞いているのか聞いていないのかわからない返事を返しつつ、彼は廊下に続くドアの向こうへと消えた。玄関からリビングへ来る途中にバスルームがあったはずだ。どうやらちゃんと話を聞いていたらしい。

 昨日まで毎朝私の部屋の前で待っていたくらいだ。朝が弱いというわけではないんだろうけど、それならアルコールのせいだろうか。それにしても、あんな反応をされると小さい子供の世話をしているようで、またくすりと笑いが漏れた。

 やっと見つけた小さなフライパンをIHにかけ、バターを溶かす。眺めているうちに熱を持った油が弾ける音がして、焼き初めの頃合いを知らせた。淡い色をした液体に浸したパンを半分ほどフライパンにのせると、蓋をして火力を弱め、傍らの椅子に腰掛ける。上司が戻ってくるまでまだ少し時間が掛かるだろうから、時間調整だ。

 備え付けの小さなダイニングテーブルは埃こそ被っていないものの傷ひとつなく、ほとんど使われている様子がない。上司はここでどんな生活をしているのだろうか。なんだか随分ともったいない使い方をしていそうな気がするのだけれど。

 どうでもいいことにぼんやりと考えを巡らせていると、コーヒーの出来上がりを知らせる音がした。香ばしい空気を吸い込む。味覚の幼い私は、コーヒーは好きではないけれど、この匂いは好きだった。久々に、馬鹿みたいに牛乳を入れて飲んでみようかとぼんやりと考える。

 穏やかな一日。飲まされたと聞いた昨日から諦めていたけれど、就業時刻はとうに過ぎている。まぁ、電話は事務所から上司の携帯へ転送設定しているし、敢えて事務所にいる必要はないのだろう。そしてその携帯も、彼が眠っている間に鳴った様子はない。

 そういえば、兄は上司が忙しそうだったと言っていた。その電話も今は途絶えているということだ。片が付いたと言ってはいたけれど、一体何をしていたのだろう? 兄には『そのうちわかる』と言っていた。私にもわかる時が来るんだろうか。女性関連の可能性も捨てきれないと思っていたけれど、この部屋を見る限り、やっぱり特定の女性は居なさそうだ。興味本位でちらりとうかがったふたつの部屋も、ひとつは寝室、もうひとつは驚くほど何も置かれていなかった。

「うーん……」

 まぁしかし、なんというか、未だに謎が多い人だ。


 フライパンがちりちりと音を立てる。いい具合に焦げ目の付いた中身をひっくり返してもう一度蓋をする。ふたり分の皿を用意していると、ドアが開き、廊下から上司が姿を現した。

「…………」

「あかりちゃん?」

 こちらに呼びかける表情は先ほどとは比べものにならないくらいすっきりしていて、いつもの上司と変わりのないものだった。けれど、それはともかくとして。

 濡れた髪から滴る雫を肩に掛けたタオルで拭き取りながら、こちらに近づいてくる彼は、カーゴパンツにTシャツ、それにパーカーを羽織っている。

 髪が下りていることもあるのかもしれないが、その姿はいつも見ている上司と比べてもあまりに幼くて――本当に少年のようだ、と思わざるを得なかった。

 絶句している私の目の前に立つと、彼はいつもより強めに、私の頭に手を置いた。

 そして、こちらへにっこりと微笑みかけると、

「業務命令。――あかりちゃん。今思ったこと、口に出したら減給だから」

 笑顔が怖い。童顔、そんなに気にしてたのか。

「……いや、別に何も。ダンディーで素敵ですよ、城ノ内さん」

「追加命令。思ってもいないこと口に出しても減給する」

「……承知いたしました」

「で、何やってんの?」

 私の手元をひょいとのぞき込んで。

 これでこの話は終わり。そう意思を示すように、話題を変えられる。

「えっ……と、朝食を作ってます。色々勝手に使わせてもらいました」

 ちょっと申し訳ない気分になりつつそう言うと、彼は何故かフライパンと私を見比べ、

「……え!?」

 唐突に、素っ頓狂な声を上げた。

「え? 何か駄目でした?」

 尋常じゃない反応に、何かいけないものでも使ったのかと戸惑う。

 フライパンもボウルもちゃんと洗ったし、材料の賞味期限も確かめたはずだ。この反応はなんだろう? もしかして、心に決めた食べ方があったんだろうか。

「……いや、ごめん。なんでもない。俺も今すごい失礼なこと思ったかも」

「…………。城ノ内さん」

 その言葉と、バツの悪そうな顔に、ピンと来た。

「私が料理出来ないと思ってましたね?」

「……ごめんなさい」

 私が笑顔を向けると、彼は目をそらし、短く謝った。

 ショックだ。確かに手際も腕前も自慢出来るほどじゃない。でも、そこまで驚かれるほど世間離れしているように見えるのか、私は。というか、何度もスーパーで食材買ってるの見てるはずなのになんで想像出来ないんだ。

「用意しますから、座ってください」

 静かにそう言うと、上司は大人しく椅子に腰を下ろした。傍らにあったリモコンでテレビをつけ、流れ出したニュース番組をBGMに、彼は肘を突いてぼんやりとテーブルを見ていた。なんとなく、疲れ気味の様子に、ふと昨日の疑問が頭をよぎる。

「どうぞ」

 コトリと、出来上がったばかりの朝食の皿を置く。コーヒーをマグカップに注ぎながら、

「確かにそこまで上手じゃありませんけど、失礼な思いこみを払拭出来る程度には食べられると思いますよ」

 そう言って、笑いかける。

 皿の上には、ジャムを添えたフレンチトーストが二切れ。隣にコーヒーを置くと、我ながらとてもシンプルな朝食の出来上がりだ。

「ホントは付け合わせに野菜が欲しかったんですけどね。冷蔵庫何もなかったから」

 買いに行こうにも玄関には鍵が掛かっていた。この建物にあるすべての住居がそうなのか、この部屋だけ特別なのかは知らないが、内側からも鍵がないと開かない仕様らしい。試しにカードキーを彼の財布から抜き取ってかざしてはみたもののパスワードまで要求されてお手上げだった。入る時だけならともかく、随分と面倒くさい家だ。

 またひとりで外に出ようとしたなんて知られると本当に監禁されそうだから、口が裂けても言えないけれど。――いや、考えてみれば既に監禁されてる状態なのか、これ。


「城ノ内さん?」

「――――え?」

「食べないんですか? 冷めますよ」

 目の前の皿を呆然と見つめている上司に、何か気にくわなかったのかと心配になる。我に返った上司は、あぁ、と頷いた。

「あれ、君の分は?」

「フライパンちっちゃくて、これから焼くんですよ。先に食べててください」

「そう? じゃあお先に」

 フォークを手に持ち、上司は温かいパンの欠片を口に運ぶ。

「城ノ内さん、ご感想は?」

 フォークをくわえたまま、またフリーズしてしまった上司に戸惑って、再び声を掛けると、

「……旨い」

 どこかぼんやりと、声が言った。

「大丈夫ですか? 気分悪い? お水飲みますか?」

 まだアルコールが残っているんだろうか。

「……いや、大丈夫。ちょっと考えちゃって」

「はぁ、何をです?」

「ifの話」

「はい?」

「昨日、お兄さんに言われたんだよ。君に聞こえてたかどうかはわからないけど」

「……あぁ、」

『あのままあいつと結婚してたら普通に上手くいってたんじゃないのか』

 思い当たったifは、耳に残る、あの兄のセリフ。

「聞こえて、ましたよ」

「あのまま君と一緒になってたら、こんな感じだったのかなってね」

 フライパンを熱し、溶けたバターの上にパンを落とすと熱が回る音がする。

「くだらない感傷だけどね。これはこれで幸せだったのかもしれない」

 また一口、トーストを口に運びながら、上司は自嘲気味に笑った。

――あぁ、なんていうか、

 おはようと笑って、ささやかな朝食をともにする。もしかしたら子供のひとりやふたり居るかもしれない。穏やかで、幸せな、ifの世界。そんな平行世界の幸せに、思いを馳せているのだとしたら、

――正直、面倒くせぇ。

 そんな意味のない幻想は、とっととぶち壊してやるのが私の義務というものだ。

「……その未来は、ありえないです」

「ん?」

「だって私、実家に居る時は、まったく料理出来ませんでしたから」

 冗談めかして、くすりと笑う。まぁ、これは紛れもない事実なんだけど。

「料理だけじゃないです。五年間色々あって、だからこそ、今の私があるんです。五年前の私となんて絶対上手くなんていってませんよ、きっと」

「……そうかもね」

 ふっと、困ったように笑う彼に、

「さ、冷めるともったいないからとっとと食べてください」

 そう言葉を投げてフライパンに向き直った。

 上司がしたのと同じように、『この話は終わり』と、そう切り捨てるように。


 焼き上がったトーストを皿に移して、彼の向かい側へ腰掛ける。

 口に運んだ切れ端は、我ながら悪くない味付けだった。


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