第100話 3人の男(2)

「書簡は、処分した。とっておくべきではないと判断し、火にくべたのだ」


 やっと聞きとれるほどの小さな声だった。

 ジャンニは内心で安堵の息をついた。燃やされたことは予想していたので驚かない。


「〈黒獅子〉亭のドメニコに、私は手紙を見せてくれるよう頼んだ。思った通りだった。名前はなかったが、差出人は8年前にメディチ家の城で何が起こったか知っていると述べ、金を払うよう要求していた。とある僧院に、夜も施錠されない古い扉がある。そこから入り、決めた場所へ金を置けというのだ。私はその手紙を言い値で買い取り、他言しないよう頼んだ。手紙はすぐ火に放り込んだ」


「しかし、妙だな。怒って〈黒獅子〉亭に行ったってことは、マウリツィオはそれを書いたのがあんただと考えたってことだよな。警察長官殿、どう思う?」


「疑問が残ると言ったのはそれだよ。匿名だとしても、怒りの矛先を向けるべき相手がいるなら、それはヤコポのはずだ」


「差出人が分からないのに、どうしてマウリツィオはあんたがと思ったんだろうな、パゴロさん」


 あちこち走り回ったせいで膝が痛い。腰掛けに尻を乗せながら言った。


「ひょっとして、あんたもあの晩トレッビオにいたとか?」


「真実を言いたまえ!」


 いきなり鋭い声が割り込んだ。リッチョだった。コジモの幼い頃の家庭教師は憤りに頬を震わせていた。


「君がコジモ様を殺そうとしたのかね!?」

「違う! 私は巻き込まれただけだ!」

「話しちまったほうがいい、パゴロさん」


 パゴロは背を丸めてライモンド・ロットの家の暖炉を見つめた。灰の中に火鋏を突っ込んでかき回し、自分のしていることに気づいてやめた。


「ひどく冷える晩だった。我々は集落で酒を飲み交わしていた。よく飲んでは馬鹿騒ぎをしたよ。しかし、あの晩は酒がすぎた。酔ったマウリツィオが、金貨の裏表で賭けをしようと言い出した。彼は昔からくだらない遊びが好きでね。負けたら何をするのか、と私が聞くと、彼は負けた者がメディチ家のコジモを殺すのはどうだ、と言った」


 宮廷執事の顔が憤怒で赤く染まった。リドルフィはというと、空いている椅子を見つけて勝手に腰を降ろし、じっと話に耳を傾けていた。


「冗談だと思ったよ。いつものお遊びだと。あの頃の状況を考えてみてくれ。コジモは先代の公爵に代わって担ぎ上げられたばかりの、未だ公爵の称号もないただの17歳の若者だったのだからね。

 負けたのは、マウリツィオだった。言い出した手前、むきになり、酒の勢いも手伝ったのだろう。すぐに城へ行くと言った。我々は止めた。が、彼は酔うと抑えがきかなくなる男だ。馬鹿げているが、本当に殺す気になったのだと思う。フィレンツェ人は誰にも頭を下げたりしない――彼はそう言ったよ。自由だってことを見せてやる、と」


 コジモは反対派を一気に粛清することになるが、その頃はまだ、メディチ家による支配に反感を抱き、共和制への回帰を望む者が多くいた。


「それで、あんな夜中にムジェッロの山へ?」

 考え込む表情のリドルフィが尋ねた。


「そうだ。どうにか気を変えてくれないかと願ったよ。寒かったし、雪がちらついていたからな。マウリツィオは馬から降り、抜き身の短剣を手に城の敷地へ入っていった。今思えば力ずくでも連れ戻すべきだった。しかし我々は隠れていた。本当にやるとは思っていなかったし、関わりたくなかったからな。ところが、庭には先客がいた。例の葡萄酒運搬人のピエトロという男だ」


 ヴィート老人の話やヤコポの証言によると、このときピエトロは小屋にヤコポを残し、戸を固定するものを探しに外へ出たところだ。


「使用人とでも思ったのだろう、ピエトロは声を上げてマウリツィオに近づき、すぐに彼が持っている短剣に気づいた。

 ピエトロは向きを変えて逃げ出した。姿を見られて、マウリツィオは動転したんだと思う。2人は揉み合いになった。そこから先は君らも知っているだろう。

 私は、隠れていた場所を出て近づいた。ピエトロは腹を刺されて仰向けに倒れていた。彼はマウリツィオだけでなく、私の顔も見てしまっていた。もし命をとりとめれば……」


 パゴロの言葉はそこで途切れた。


「あんたがピエトロにとどめを刺したのかい?」


「……マウリツィオは茫然とした状態だった。私は夢中でピエトロの首を絞めた……」


 パゴロは両手で顔を覆った。


「我々は皆、若くて愚かだったんだ。フィレンツェに戻ると、事件を起こしたのは我々だという噂が広まり始めていた。集落での会話を聞いていた者がいたんだろう。ともすれば八人委員会の手はマウリツィオに、ひいては私にまで伸びてきていたかもしれない」


「八人委員会がレオナルド・ラウジを下手人として吊し上げた時は、ほっとしただろう。あんたのきれいなお手々が後ろに回される心配はなくなったんだものな」


 警察長官と宮廷執事に見えないところで、アレッサンドラが小さく息を呑んだのがジャンニには分かった。


 パゴロは女主人の様子に気づいていない。


「マウリツィオが、私に脅迫されたものと思い込んで〈黒獅子〉亭に来たのも無理からぬ話だろう。あの晩の事を知っているのは我々3人しかいないはずだから。ダミアーノは今でも彼と親しくしているが、私はあれ以来、罪の意識からマウリツィオとは距離を置くようにしていた……」


「ダミアーノ? あの詐欺師のダミアーノか?」

「城へ行ったのはマウリツィオとダミアーノ、それに私の3人だ」


 警察長官が咳払いして立ち上がった。


「けちなごろつきが勢揃いしていたわけだな。今の話を、マルカントニオ・ラプッチの前でもう一度してもらわなければならない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る