12 過去と現在

第86話 欄外の文字

 八人委員会の取調室には誰もいなかった。


 机の上に、レンツォ自身の署名がある今朝の取り調べ調書がのっている。他は議事録やメモばかりだ。捜しているものはどこにもない。リッポが紙を置いたというのはこの部屋ではない。


 机ごと持ち上げて壁に投げつけた。


 盗品を売っていたことをベルリンゴッツォが喋った、というのが事実かどうか分からない。保管庫から紛失した品が店から見つかったという話も妙だった。警察の押収品を自分の店の棚に残しておくとは思えない。だが、うっかり置いた可能性はある。


 ここにないなら、リッポは名前を書いたという紙をどこに置いたのか。書記官の執務室は3階だが、そんな場所まで忍び込んだりするだろうか? 旧市場で殴られた腹いせをするだけのために?


 床に散乱した書類の1枚が目に留まった。ラウラの名前が書いてあったからだ。強姦されたという彼女の訴えをもとに作成された調書だろう。


 欄外に、几帳面な文字で書かれた文章があった。筆跡とインクの色味が違うので、後から誰かが追記したものと分かる。



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告訴取り下げの件でピエロ・ランフレディから質問があったが、私に報告が届いていない。氏は女が嘘をついていたのを認めたと主張し、確かにジャンニ・モレッリと話したと言っている。女の供述はとってあるのか? ただちに確認せよ。R

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 Rはラプッチの頭文字だ。裁判官らに宛てた走り書きのようだ。


 女が嘘をついていたのを認めた?


 どういうことなのか分からない。嘘のはずがない。ラウラの方から告訴を取り下げるはずもなかった。彼女は死を望むほどマウリツィオを憎んでいる。


 頭を混乱させたまま、庁舎を出た。通りの向かい側にルカがいた。胡散臭いローブは脱いで、もとの薄汚れた格好に戻っている。


「ベルナについて少し分かった。けど居所はつかめない。もうフィレンツェにはいないんじゃないかな」

「分かったことだけ教えろ」

「昨日の晩はサンタ・クローチェ教会の裏に住む女の家で寝た。〈王冠〉って名前の宿の上だ。今朝そこを出て、その後は誰も行き先を知らない」


 町を出たとすれば、通りの先にあるクローチェ門から出て行ったはずだ。


「分かった。このことは誰にも言うなよ」


 ルカはまだ立ち去ろうとしなかった。なんとなく、ばつが悪そうだ。


「ラウラ。画家の娘で、ピエロ・ランフレディの倅に手込めにされたって八人委員会に申し立ててる。あんたが言ったのはその女だ。あんたの女だろ?」


 レンツォは何も言わなかった。ルカは言葉を続けた。


「別に、おれには関係ない話なんだけどさ。その女はさっき、そのピエロ・ランフレディの家から出てきたぜ」

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